なぜ人は陰謀論を信じてしまうのか
——魔女は、嘘をつかない
マクベス
怪しい話を信じ込んでしまう人は、たいてい頭が悪いわけでも、だまされやすいわけでもない。僕が実際に話したことのある範囲でも、むしろ逆だった。資料をよく読んでいるし、記憶力もいいし、話の筋も通っている。「人の言うことを鵜呑みにしない」「自分で調べる」を信条にしている人が多い。普通なら美点として褒められる態度だ。それなのに——あるいはそれゆえに——ずいぶん遠いところまで行ってしまう。
これはどういうことなのだろう。だまされやすさの問題でないとしたら、いったい何の問題なのか。この問いに、かなり具体的な答えを出している作品がある。『マクベス』だ。しかもこの劇は答えを出しているだけでなく、その手口を登場人物の口から言葉にして説明までしている。今回はその話をしたい。
まず前提——魔女は、一度も嘘をついていない
この劇について、最初に押さえておきたい事実がひとつある。魔女たちは、劇中で一度も嘘をついていないということだ。彼女たちが口にした予言は、確認できるかぎり、すべてそのとおりになる。荒野での最初の場面から、それは始まっている。
FIRST WITCH: All hail, Macbeth! hail to thee, thane of Glamis! / SECOND WITCH: All hail, Macbeth, hail to thee, thane of Cawdor! / THIRD WITCH: All hail, Macbeth, thou shalt be king hereafter!
第一の魔女「めでたし、マクベス。あなたに祝福を、グラミスの領主よ」/第二の魔女「めでたし、マクベス。あなたに祝福を、コーダーの領主よ」/第三の魔女「めでたし、マクベス。あなたはいずれ王になる」(拙訳)
『マクベス』第1幕第3場
ここには段差がある。グラミスの領主というのは、マクベスがすでに持っている肩書きだ。つまり一つめは、確かめるまでもない本当のこと。二つめのコーダーの領主は、この直後に王の使者がやってきて、すでにそう任命されていたと知らされる。つまり魔女は未来を言い当てたのではなく、本人がまだ知らない既成事実を先に告げただけだ。それでも、確かめたら本当だった、という体験は残る。三つめの「王になる」だけが、まだ確かめようのない話として残される。マクベス自身、この配列に気づいている。
Two truths are told, / As happy prologues to the swelling act / Of the imperial theme.
二つの真実が語られた。王位という主題の、いよいよふくらんでゆく幕への、幸先のよい前口上として。(拙訳)
『マクベス』第1幕第3場
「二つの真実が語られた」。二つ当たったのだから、三つめも当たるだろう——という推論を、彼はここで自分に許している。そして、この推論は論理として完全に間違っているわけでもない。そこがこの話の厄介なところだと思う。
劇の中に、手口の説明書きが置かれている
この場面には、もう一人立ち会っている人物がいる。マクベスの同僚バンクォーだ。彼は同じ予言を同じ距離で聞き、同じように驚き、それでも一歩下がってこう言う。
But 'tis strange: / And oftentimes, to win us to our harm, / The instruments of darkness tell us truths, / Win us with honest trifles, to betray's / In deepest consequence.
だが妙な話だ。往々にして、我々を害へと引き寄せるために、闇の手先どもは我々に真実を語る。取るに足りない本当のことで信用を勝ち取っておいて、いちばん深いところで裏切るのだ。(拙訳)
『マクベス』第1幕第3場
この数行が、僕にとってはこの記事のすべてだと言っていい。「闇の手先どもは真実を語る」。嘘で人を落とすのではない。本当のことで落とすのだ。しかも、些細な本当のことで信用を作っておいてから、いちばん大事なところで裏切る。ペテンの構造を、これ以上短くまとめた言葉を僕は知らない。
見落としたくないのは、これが400年後の研究者の分析ではなく、劇中の人物が、事が起きる前に、その場で口に出している言葉だということだ。答えは最初から舞台の上に置かれている。マクベスもそれを聞いている。聞いたうえで、進む。
手口を分解すると、三つの段になる
バンクォーの言う手口を、もう少し細かく開いてみたい。僕の読み方では、三つの段がある。
一段目は、検証できる小さな真実を先に渡すこと。コーダーの領主の件がこれにあたる。数分後に確かめられるレベルの、小さくて、確実で、しかし本人にとっては意外な事実。ここで信用の口座が開かれる。
二段目は、信用が立ったところで、検証できない大きな話を渡すこと。「王になる」は、その場では確かめようがない。確かめようがないからこそ、一段目の的中がそのまま担保として効いてしまう。
三段目が、いちばん厄介だと思う。受け手は自分で確かめたつもりになっているので、疑うという手続きをもう済ませたと感じている。人から聞いた話を鵜呑みにしたのではない、自分の目で一つ検算して通したのだ、と。だから、その先で警戒が下りる。
これは現代の陰謀論の構造とかなり近いのではないか、と思う。ああいう話の入り口に出てくる「事実」は、しばしば本当に事実だ。日付も、数字も、引用元も合っている。合っているからこそ、その先の飛躍が通ってしまう。最初から嘘をつく必要はないし、むしろ最初は本当のことだけを言ったほうが効く。「自分で調べる」人ほど深くはまることがあるのは、たぶんそのためだろうと思う。検算できる部分が、ちゃんと入り口に用意されているのだ。
もうひとつの鍵——曖昧なまま渡して、受け手に埋めさせる
劇の後半、追い詰められたマクベスは自分から魔女のもとへ戻り、二つめの予言群を受け取る。幻影たちが順に告げる。
SECOND APPARITION: Be bloody, bold, and resolute; laugh to scorn / The power of man, for none of woman born / Shall harm Macbeth. / THIRD APPARITION: Be lion-mettled, proud; and take no care / Who chafes, who frets, or where conspirers are: / Macbeth shall never vanquish'd be until / Great Birnam wood to high Dunsinane hill / Shall come against him.
第二の幻影「血を厭うな、大胆に、断固としてあれ。人間の力など嘲笑ってしまえ。女から生まれた者に、マクベスを害することはできない」/第三の幻影「獅子の気性で、誇り高くあれ。誰が怒ろうと、誰が焦れようと、謀反人がどこにいようと、気にするな。マクベスが打ち負かされることは決してない。大いなるバーナムの森が、高きダンシネインの丘へ攻め上ってこないかぎりは」(拙訳)
『マクベス』第4幕第1場
女から生まれていない者などいない。森は歩かない。だから自分は不死身だ——マクベスはそう理解して、安心する。ところが終盤、マルカムの率いる軍勢は、兵数を悟らせないためにバーナムの森の枝を切って掲げ、それを持ったまま進軍する。森は動いてしまう。そして彼を討つマクダフは、母の腹を裂いて取り出された者であり、通常の意味で「女から生まれた」わけではない、とこの劇は扱う。予言は、劇が採る語義の上では、全部正しかったことになる。
大事なのは、幻影たちが渡したのは態度であって、意味ではないということだ。「大胆であれ」「気にするな」とは繰り返し言う。ところが「女から生まれた者」が何を指すのか、「森が動く」とはどういう事態なのかは、一言も説明しない。不死身だという結論は、マクベスが自分で足したものである。彼は最後の場面で、そのことに気づく。
And be these juggling fiends no more believed, / That palter with us in a double sense; / That keep the word of promise to our ear, / And break it to our hope.
こんな手品師の悪魔どもを、もう二度と信じるな。奴らは二通りに取れる言葉で我々を欺く。約束の言葉を、耳に対しては守り、望みに対しては破るのだ。(拙訳)
『マクベス』第5幕第8場
「耳には守り、望みには破る」。これも現代の話に置き換えやすい表現だと思う。「〜と言われている」「調べればわかる」「疑問の声が上がっている」——断定していない情報は、断定していないぶん反証もされない。そして受け手は、残された空白を自分に都合のいい形で埋める。埋めたのは自分なのに、言われたと感じてしまう。ここが一番静かで、一番強い仕掛けなのだと思う。
では、なぜマクベスには効いたのか
ここまで手口の話をしてきたが、肝心なことがまだ残っている。なぜマクベスには効いて、バンクォーには効かなかったのか、である。
同じ予言を、同じ日に、同じ荒野で聞いた二人だ。バンクォーにも「子孫が王になる」という、決して悪くない予言が与えられている。それでも彼は動かない。違いは頭の良さではないと思う。かといって、彼に欲がなかったわけでもない。
マクベスの側には、予言より前から王位への欲望があった。予言はそれをゼロから作ったのではなく、すでにそこにあったものに形と言い訳を与えただけだろうと思う。THEME 08で書いたとおり、彼は王冠と引き換えに眠りを失っていく人物で、その交換をどこかで自分に許している。実際、殺すと決めたのも、剣を握ったのも、全部彼だ。魔女は誰一人刺していない。
妻についても同じことが言えると思う。CHARACTER 02で見たように、彼女は「私を鬼にしてくれ」と自分から祈る。外から鬼にされたのではない。この夫婦は二人とも、自分の中にすでにあるものを、外から承認してもらっているだけなのだ。
超自然の扱いについてはTHEME 06でも書いたが、シェイクスピアの魔女や亡霊は、たいてい心の増幅器として設計されているように読める。無から欲望を注入するのではなく、すでにあるものを大きくする。だから同じ舞台に立っていても、見える人と見えない人がいる。
信じてしまう条件は、たぶん自分の側にある
まとめると、こういうことになると思う。人が怪しい話を信じるかどうかを分けているのは、頭の良し悪しでも、情報リテラシーの点数でもない。その話を信じたい理由が、自分の側にあるかどうかだ。理由がある人には、本当のことを二つ並べてやるだけで足りる。理由がない人には、何をどれだけ並べても届かない。バンクォーが最後まで動かなかったのは、彼が賢かったからでも、欲がなかったからでもないと思う。実際、彼も王位の予言を自分の子孫に引きつけて「あれは私の託宣でもあって、私に希望を持たせてくれるのではないか」と考えているし、眠りのあいだに湧く呪わしい想念を抑えてくれ、と祈ってもいる。違いは、欲しがったかどうかではなく、欲しがっている自分を疑うのをやめたかどうかのほうにあるのではないか。
だからこの記事は、「だまされないように気をつけよう」という話にはならない。だます側だけを警戒しても、あまり意味がなさそうだからだ。魔女は何も強制していないし、嘘もついていない。彼女たちがやったのは、彼がもともと欲しかったものを、本当のことだけを使って指し示すことだった。それで一つの国が転ぶ。
点検すべきなのは、たぶん情報のほうではなく、その情報を聞いたときに自分の中で何が少し嬉しかったか、のほうなのだと思う。「やっぱりそうだったのか」と感じた瞬間があったなら、そこが荒野で、そこに魔女が立っている。ちなみにこの劇は、劇場でその名を口にすること自体が縁起が悪いとされ、別の呼び名で呼ぶ慣習があると語られている(COLUMN 02)。言葉のほうに力があると思いたい気持ちは、400年たっても人間から抜けていないらしい。魔女の商売が廃れないのは、たぶんそういうことなのだろう。