狂気は演技か、本物か
——シェイクスピアの「狂った人たち」を並べてみる
ハムレット/オフィーリア/リア王/エドガー/マクベス夫人
シェイクスピアの劇には、驚くほどたくさんの「狂った人」が出てくる。しかも面白いことに、その狂気の「本気度」がバラバラなのだ。
最初から最後まで完全に演技の人。演技のはずが、だんだん怪しくなってくる人。まぎれもなく本物の人。そして、正気と狂気のあいだを行ったり来たりして、狂気の中でこそ真実を語ってしまう人。
この記事では、代表的な5人——ハムレット、オフィーリア、エドガー、リア王、マクベス夫人——を「演技度」の順に並べて眺めてみたい。並べてみると、シェイクスピアが狂気を通して何を描こうとしていたのか、その輪郭がうっすら見えてくる。予備知識がなくても読めるように、各作品のあらすじも最小限つけた。
そもそも、当時の観客にとって「狂気」とは
本題の前に、ひとつだけ前提を。シェイクスピアが生きた16〜17世紀のイングランドでは、狂気は今でいう医学的な「病気」というより、体液のバランスの乱れ(特に「黒胆汁」の過剰=メランコリー)や、恋わずらい、悪魔憑き、神罰などが混ざり合った、もっと曖昧なものと考えられていた。
ロンドンには「ベドラム」と呼ばれた精神病院(ベツレヘム病院)が実在し、当時の人々にとって「物乞いをする狂人」は日常の風景だった。つまり観客は、舞台の上の狂気を「よく知っているもの」として見ていたわけだ。だからこそ「あれは演技か、本物か」という問いが、劇の面白さとして成立した——ここがまず出発点になる。
エドガー——100%の演技。狂気は「変装」である
リア王
まず「演技度100%」の端から始めよう。エドガーの狂気は、最初から最後まで完全な演技だ。彼は命を守るための変装として、あえて社会の最底辺——裸同然の狂った物乞い「哀れなトム」を選ぶ。
My face I'll grime with filth, / Blanket my loins, elf all my hairs in knots, / And with presented nakedness outface / The winds and persecutions of the sky.
顔には泥を塗り、腰には毛布ひとつ、髪はもつれ放題にして、ほとんど裸のまま、風と空の責め苦に立ち向かってやる。(拙訳)
『リア王』第2幕第3場
注目したいのは、エドガーの狂気が「準備された狂気」だという点だ。彼は狂人がどう見えるか、どう喋るかを知っていて、それを技術として再現する。悪魔の名前を叫び、意味不明な歌をうたい、体を傷つける。当時の観客が知っている「ベドラムの物乞い」の型を、そっくりなぞるのだ。
つまりエドガーが示しているのは、狂気には「型」があり、型があるなら演じられる、という事実だ。狂気が演技可能なものだとしたら、目の前の狂人が本物かどうか、外から見分ける方法はあるのか?——この不穏な問いが、同じ劇の中で本当に狂っていくリア王の存在によって、いっそう際立つことになる。
そしてエドガー本人が、演技の限界を漏らす瞬間がある。狂ったリアと対面し、涙で「演技が続けられない」と観客にこっそり打ち明けるのだ。
My tears begin to take his part so much, / They mar my counterfeiting.
涙がすっかりこの方の味方をしてしまって、私の偽りの芝居を台無しにする。(拙訳)
『リア王』第3幕第6場
偽の狂人が、本物の狂人を見て泣いてしまい、演技が崩れかける。「演技か本物か」というこの記事の問いが、劇中でそのまま演じられているような場面だ。
ハムレット——「狂ったふり」を宣言した男の、ふりの境界線
ハムレット
ハムレットの狂気が面白いのは、彼が「これから狂ったふりをする」と事前に宣言するところだ。亡霊と会った直後、親友ホレイシオたちにこう釘を刺す。
As I perchance hereafter shall think meet / To put an antic disposition on.
この先おれは、場合によっては、わざと奇矯なふるまいを身にまとうかもしれない。(拙訳)
『ハムレット』第1幕第5場
「antic disposition(奇矯なふるまい)」——つまり観客は最初から「これは演技だ」というネタバレを聞かされた上で、ハムレットの奇行を見ることになる。実際、彼の「狂気」はどうも都合が良すぎる。相手や場面によって、狂い方の濃度を調整しているフシがあるのだ。老臣ポローニアスをからかうときは支離滅裂に、ホレイシオと話すときは完全に正気に。ポローニアス自身、こう漏らす。
Though this be madness, yet there is method in't.
狂ってはいるが、妙に筋が通っている。(拙訳)
『ハムレット』第2幕第2場
ハムレット本人も、自分の狂気をこんなふうに言ってのける。
I am but mad north-north-west: when the wind is southerly I know a hawk from a handsaw.
おれが狂うのは北北西の風のときだけだ。南風が吹けば、鷹と鷺の区別くらいつく。(拙訳)
『ハムレット』第2幕第2場
「狂うのは風向き次第」——自分でオン・オフを切り替えられると公言しているわけだ。ここまで見れば、ハムレットの狂気は演技だと言い切れそうに思える。
ただ、そう単純に割り切れないのがこの劇の底知れないところで。母の寝室でポローニアスを衝動的に刺し殺す場面や、オフィーリアの墓に飛び込んで取り乱す場面のハムレットは、「計算された演技」と呼ぶにはあまりに激しすぎる。演技のはずの狂気と、本物の絶望や衝動との境目が、劇が進むにつれてだんだん曖昧になっていく。
ここは批評史でも何百年も議論が続いているところで、正解はない。ただ僕の読み方としては、ハムレットは「狂気を演じているうちに、狂気でしか言えないことを言う自由を覚えてしまった人」なんじゃないかと思っている。狂人のふりをしていれば、王を侮辱しても、貴族をからかっても許される。演技の狂気は、彼にとって唯一の「本音を言える場所」になっていた——そう考えると、演技と本物の区別を問うこと自体が、少し野暮なのかもしれない。
オフィーリア——本物の狂気。そして狂気だけが与えた「声」
ハムレット
ハムレットの「宣言された演技の狂気」の対極に置かれているのが、オフィーリアだ。彼女の狂気には宣言も準備もない。父の死のあと、彼女は突然、歌をうたいながら舞台に現れる。誰もそれを疑わない。演技かどうかという問いすら発生しない、まぎれもない本物の狂気だ。
ここで注目したいのは、狂う前と後で、オフィーリアの「言葉の量」が逆転することだ。正気だったころの彼女は、父に「はい、お父様」と従い、ハムレットには一方的に罵られ、ほとんど自分の言葉を持たせてもらえなかった。ところが狂ったあとの彼女は、歌と花を通して、堰を切ったように語り始める。裏切られた娘の歌。死んだ男の歌。そして居並ぶ宮廷人たちに、一輪ずつ花を配りながら。
There's rosemary, that's for remembrance; pray you, love, remember: and there is pansies, that's for thoughts.
これはローズマリー、思い出のしるし。ねえ、覚えていてね。こっちはパンジー、もの思いの花。(拙訳)
『ハムレット』第4幕第5場
花にはそれぞれ花言葉があり、誰にどの花を渡したかは台本に書かれていない。だから上演のたびに解釈が分かれるのだが、後悔を意味するヘンルーダを王妃に(あるいは王に)渡す演出が多い。つまり狂ったオフィーリアは、花を配るという無害な行為を通して、宮廷の全員を一人ずつ告発しているようにも見えるのだ。
正気のときは何も言えなかった人が、狂気の中でだけ真実を言える。これはこのあと見るリア王にもつながる、シェイクスピアの狂気の描き方のいちばん深い部分だと思う。狂気は彼女から理性を奪ったけれど、同時に、生まれて初めての「声」を与えた。そう読むと、あの有名な溺死の報せがいっそう切なくなる。
リア王——本物へ堕ちていく狂気と、「狂気の中の理性」
リア王
リアの狂気は、エドガーともハムレットとも違って、進行していく狂気だ。しかも本人が、自分が壊れていくのを自覚している。娘たちの仕打ちに耐えながら、彼はこう祈る。
O, let me not be mad, not mad, sweet heaven! / Keep me in temper: I would not be mad!
ああ、狂わせないでくれ、狂いたくない、天よ! 心を保たせてくれ。狂いたくないのだ!(拙訳)
『リア王』第1幕第5場
「狂いたくない」と祈る人が、観客の目の前で少しずつ狂っていく。この構造の残酷さは、シェイクスピア劇の中でも際立っている。そして嵐の荒野で、本物の狂気に堕ちたリアと、狂気を演じるエドガー(トム)が出会う。本物と偽物の狂人が並んで嵐に打たれるこの場面は、「狂気は演技か本物か」というテーマがひとつの画面に収まった、この劇の心臓部だと思う。
ところが、だ。狂ったリアは、正気のときには決して言えなかったことを言い始める。王として権力の頂点にいた男が、裸のトムを見て「人間とは本来こういうものか」と気づき、荒野で初めて貧しい民のことを考える。そして権力と裁きの欺瞞を、狂気の言葉で暴いていく。それを聞いたエドガーが、思わずこう漏らす。
O, matter and impertinency mix'd! / Reason in madness!
ああ、意味とたわごとが混ざり合っている。狂気の中の理性だ!(拙訳)
『リア王』第4幕第6場
「Reason in madness(狂気の中の理性)」。このフレーズは、シェイクスピアの狂気論をひとことで要約していると言ってもいい気がする。王冠をかぶっていたときのリアは、お世辞と嘘に囲まれて何も見えていなかった。すべてを失って狂ったとき、初めて世界がクリアに見えた。狂気が真実の通り道になる——オフィーリアの花束と、まったく同じ構造だ。
マクベス夫人——罪が見せる狂気。誰にも演じられていない場所で
マクベス
最後は、演技の要素がいっさいない狂気だ。マクベス夫人の夢遊病の場面は、シェイクスピアの狂気の描写の中でもいちばん臨床的というか、静かで怖い。彼女は夜ごと眠ったまま歩き回り、手を洗い続ける。
Out, damned spot! out, I say! ... What, will these hands ne'er be clean?
消えろ、忌まわしい染みめ。消えろというのに。……この手は、もう二度ときれいにならないのか?(拙訳)
『マクベス』第5幕第1場
暗殺の夜、彼女は返り血について「少しの水で洗い流せる」と言い放った。その言葉が、そっくりそのまま反転して返ってくる。どれだけ洗っても消えない血の染み。昼間は王妃の顔を保っている人が、眠りの中でだけ、抑え込んだ罪に追いつかれる。
この場面が他の4人と決定的に違うのは、観客だけが見ている狂気だという点だ。ハムレットの狂気は宮廷への見せ物、エドガーの狂気は変装、オフィーリアとリアの狂気も常に誰かの目の前で起きる。でもマクベス夫人の狂気は、本人に観客の自覚すらない。眠っているのだから。医者と侍女が物陰からのぞき見るだけだ。そして医者は、匙を投げてこう言う。
More needs she the divine than the physician.
この方に要るのは医者ではなく、神に仕える者だ。(拙訳)
『マクベス』第5幕第1場
体の病なら医者が治せる。でもこれは魂の問題だ、と。当時の狂気観——病気と罪と神罰が地続きだったこと——が、この一行に凝縮されている。演技かどうかを問う余地すらない、いちばん深い場所にある狂気だ。
並べてみて見えること——劇場そのものが「演技の狂気」だから
5人を「演技度」順に並べ直すと、こうなる。
エドガー(完全な演技)→ ハムレット(演技のはずが境界が溶ける)→ リア(狂いたくないのに狂う)→ オフィーリア(完全な本物)→ マクベス夫人(本物、しかも本人は眠っている)。
きれいなグラデーションだ。そしてどの狂気にも、共通する仕掛けがひとつある。狂気が、正気では言えない真実の通り道になっていることだ。エドガーは狂人の姿でしか父を守れず、ハムレットは狂人のふりの中でしか本音を言えず、オフィーリアは狂って初めて声を得て、リアは狂って初めて世界が見えた。マクベス夫人の場合は、眠りの中の狂気だけが、彼女が誰にも見せなかった罪の意識の在り処を教えてくれる。
最後に、少しだけ引いた視点を。そもそも劇場という場所自体が、「正気の人間が、狂った人間を演じてみせる場所」だ。オフィーリアを演じた役者は正気だし、リアを演じた役者も正気。観客はそれを承知の上で、演じられた狂気に本物の涙を流す。つまり「狂気は演技か本物か」という問いは、シェイクスピアにとって単なる題材ではなく、演劇というメディアそのものに埋め込まれた問いだったんじゃないか——僕はそんなふうに考えている。
リアはこう言った。「人は泣きながら生まれてくる。この阿呆どもの大舞台に引き出されたのが悲しくて」(第4幕第6場・大意)。世界は舞台で、人はみな役者。だとしたら、正気と狂気の線引きも、案外、配役の問題なのかもしれない。