老いと退場の作法
——シェイクスピアは「手放す順番」をどう書いたか
お気に召すまま / リア王 / テンペスト / ソネット集
『お気に召すまま』の憂鬱屋ジェイクイズには、「この世はすべて舞台」で始まる有名な長台詞がある。人生を七つの幕に分ける説で、泣きわめく赤ん坊に始まり、学校嫌いの子ども、ため息をつく恋人、名誉に飢えた兵士、腹の出た判事、痩せてスリッパを履いた老人、と役が進んでいく。そして最終幕の描写が、容赦ない。
Last scene of all, / That ends this strange eventful history, / Is second childishness and mere oblivion, / Sans teeth, sans eyes, sans taste, sans everything.
そして最後の場が、この奇妙で波乱ずくめの物語を締めくくる。第二の子ども時代、ただの忘却。歯もなく、目もなく、味もわからず、何もかも失って。(拙訳)
『お気に召すまま』第2幕第7場
歯もなく、目もなく、何もかも失って。老いを「全部を取り上げられる最終幕」として戯画化する、意地の悪いカタログだ。ただ、これはあくまで皮肉屋ジェイクイズの持ちネタであって、シェイクスピア自身の筆は、老いをこの一枚絵で済ませていないと思う。今回は、彼が「老いと退場」をどう書いたかを、失敗例、成功例、そして詩人自身の一人称の声、という順で読んでみたい。先に僕の見立てを言ってしまうと、鍵は「何を、いつ、自分から手放すか」だ。
リア王——王冠は手放したのに、王扱いは手放していない
開幕のリアの宣言は、隠居の弁として読むと実に潔い。
'Tis our fast intent / To shake all cares and business from our age, / Conferring them on younger strengths, while we / Unburden'd crawl toward death.
私の固い決意はこうだ。老いの身からいっさいの心労と政務を振り落とし、若い力にそれを譲り渡して、身軽になって死へと這ってゆく。(拙訳)
『リア王』第1幕第1場
身軽になって死へ這ってゆく——完璧な引退計画に聞こえる。ところが直後の条件が、この宣言を裏切っていく。彼は統治権は譲るが、王の称号と敬意、そして百人の騎士の従者は手元に残すと言うのだ。権限は手放すのに、王扱いは手放さない。THEME 08の言い方を借りれば、王冠は渡しても「王の役」を降りていない。
受け入れる娘たちの側から見れば、従者百人を引き連れた「元王」は、統治権のない王をもてなし続けろという無理な注文でもある。従者は百人から五十人、二十五人と削られ、ついには「一人も要らないでしょう」まで落ちる。このときのリアの怒りが、財産ではなく敬意の削減に向いていることに注目したい。老いの問題がここでは、「引退した後も、以前と同じ自分として扱われたい」という欲求の問題として書かれている。開幕で娘の愛を計量しようとした失敗(THEME 07)も、僕の読み方では根は同じだ。手放したのは仕事だけで、自分の大きさはひとつも手放していない。
そのプライドが嵐の中で砕かれ、正気まで手放したあとに、ようやくあの場面が来る。第4幕第7場、コーディリアとの再会だ。
Pray, do not mock me: / I am a very foolish fond old man, / Fourscore and upward, not an hour more nor less; / And, to deal plainly, / I fear I am not in my perfect mind.
頼む、私をからかわないでくれ。私は愚かな、たわいない老人だ。八十歳あまり、一時間の上下もない。正直に言えば、自分の正気が確かでない気がするのだ。(拙訳)
『リア王』第4幕第7場
八十歳あまり、と初めて自分の歳を数え、愚かな老人だ、と初めて自分の寸法を測り直す。大事なのは、娘との和解がこの自己申告の後にしか来ないことだ。王として扱われることを求め続けるあいだ、リアは誰とも和解できなかった。「たわいない老人」を受け入れた瞬間に、娘が戻ってくる。ちなみにこの劇には「人は生まれるとき、この阿呆どもの大舞台に出てきたのが悲しくて泣くのだ」という台詞もあって、ジェイクイズの人生七幕説と不気味に呼応している。奪われ尽くしてから、ようやく手放し方を学ぶ——これが、シェイクスピアの書いた隠居の失敗例だ。
プロスペロー——力の絶頂で、自分から杖を折る
失敗例の反対側に、プロスペローがいる。彼は魔法で仇敵全員を手中に収め、復讐が完成する寸前まで行く。そこで方針を変えるのだ。立派なのは復讐よりも赦しのほうだ、と自分に言い聞かせ、敵を許すと決めた直後に、あの宣言が来る。
But this rough magic / I here abjure ... I'll break my staff, / Bury it certain fathoms in the earth, / And deeper than did ever plummet sound / I'll drown my book.
だが、この荒々しい魔法を、私は今ここで捨てる。(中略)杖は折って、地中深くに埋めよう。そして測り鉛も届いたことのない深みに、私の本を沈めよう。(拙訳)
『テンペスト』第5幕第1場
リアと並べると、違いは能力ではなく順番だと思う。プロスペローは魔法を奪われたのではない。全能のまま、力の絶頂で、自分から捨てている。しかも杖は折る、本は測鉛も届かない深さに沈める、と回収不能なほど徹底的に、自分の手で捨てる。リアが奪われ尽くしてから学んだことを、プロスペローは先にやるのだ。THEME 10で見たとおり、彼はこの劇全体の演出家でもあった。その演出家が最後に演出するのは、自分自身の退場だ。エピローグで彼は、魔法を失ったただの人間として観客の前に立ち、拍手でこの身を解き放ってほしい、と頼んで幕を引く。
この幕切れを、引退を決めた劇作家の自画像として読む読み方は、昔から広く語られている。裏付ける記録があるわけではないけれど、そう読みたくなる気持ちはよくわかる。
ソネット73番——手放す予告が、愛を強くする
劇から離れて、詩人の一人称の声も聞いておきたい。ソネット73番は、老い——少なくとも盛りを過ぎた時間の自覚——を、三つの比喩を重ねて歌う詩だ。黄葉の季節、日没後の薄暮、そして灰の上で燃え尽きようとする火。
That time of year thou mayst in me behold / When yellow leaves, or none, or few, do hang / Upon those boughs which shake against the cold ... This thou perceiv'st, which makes thy love more strong, / To love that well which thou must leave ere long.
あの季節を、君は僕のうちに見るだろう。黄色い葉が、もう一枚もなく、あるいはわずかに、寒さに震える枝に掛かっている季節を。(中略)君はそれを見て取る。だからこそ君の愛はいっそう強くなる。やがて手放さねばならないものを、それだけ深く愛するのだ。(拙訳)
『ソネット集』73番
三つの比喩がどれも「終わりかけの時間」を指しているのは一読してわかるが、注目したいのは、その尺度がだんだん短くなっていくことだ。季節(一年の残り)から薄暮(一日の残り)へ、そして燃え尽きる火(数時間の残り)へ。残り時間が縮んでいく感覚を、比喩の物差しそのもので表している——この設計は、何度読んでもすごいと思う。そして結びの二行は、その老いの自覚を突き放さずに、逆説で受ける。もうすぐ手放すとわかっているからこそ、愛は強くなるのだ、と。ここでも鍵は「手放す」で、しかも手放す予告そのものが、愛の強度に変換されている。
並べてみて見えること——「何を、いつ、自分から」の問題
整理しよう。ジェイクイズは老いを、何もかも取り上げられる最終幕として戯画化した。リアは、手放すべきもの(王扱い)を手放さず、手放してはいけないもの(娘の愛)を最初に手放して、すべてを奪われてから学んだ。プロスペローは、いちばん惜しいはずのもの(魔法)を力の絶頂で自分から捨て、退場の主導権を最後まで握った。ソネット73番は、手放す予告を愛の燃料に変えた。並べてみると、シェイクスピアにとって老いの問題は「何を失うか」ではなく、「何を、いつ、自分から手放すか」の問題だったように見える。奪われるのを待てば悲劇になり、先に手放せば、退場は自分の演出になる。
そういえば、シェイクスピア自身も40代のうちにロンドンの演劇界から身を引き、故郷ストラトフォードに引き上げたと語られている。正確な時期や事情を示す記録は乏しいものの、人気の絶頂からそう遠くないところで筆を置いたことになる。引き際の巧さは、作品の中だけの話ではなく、彼自身の人生観だったのかもしれない。