父と娘——祝福されない相続
——娘は財産か、人格か
リア王/ヴェニスの商人/夏の夜の夢/テンペスト
シェイクスピアの劇には、母親が驚くほど出てこない。ジュリエットには母がいるが影が薄く、コーディリアにも、ミランダにも、ジェシカにも、母はいない(あるいは最初から死んでいる)。代わりに舞台を占領しているのが、娘の人生を握りしめた父親たちだ。
そして、この父たちがそろいもそろって、同じ場面でつまずく。娘を手放す場面——つまり、娘の結婚だ。ある父は愛を計量しようとして娘を失い、ある父は駆け落ちされて「娘よ! 金貨よ!」と叫び、ある父は娘に求婚者を選ばせるふりをして全部お膳立てする。今回は、この「手放せない父」たちを並べて、家父長の愛と所有のあいだにある、うす暗い領域を覗いてみたい。
前提——法の上で、娘は父の「もの」だった
まず当時の前提から。エリザベス朝の法と慣習において、未婚の娘は父の保護下にあり、結婚とは父の庇護から夫の庇護への引き渡しだった。現代の結婚式にも残る「父が娘の手を引いて入場し、新郎に渡す」あの動線は、この引き渡しの名残だ。持参金は父が出し、結婚は家産の再配分でもあった(THEME 02で見たとおりだ)。
この構図を、シェイクスピアはくり返し極端な形で舞台に載せる。『夏の夜の夢』の冒頭、父エゲウスは、意中の相手と結婚したいと言う娘ハーミアを公爵の前に引き出して、こう言い放つ。
As she is mine, I may dispose of her: / Which shall be either to this gentleman / Or to her death, according to our law.
娘は私のものですから、私が処分いたします。この紳士に与えるか、さもなくば法に従って死を与えるか。(拙訳)
『夏の夜の夢』第1幕第1場
「処分(dispose)」。娘に使う動詞ではない。あの祝祭的な喜劇が、実は「父の言う相手と結婚しなければ死刑」という選択肢から始まっていることは、案外忘れられている。シェイクスピアの父娘物語は、この「娘は財産である」という前提の上で、では愛はどこに置かれるのかを試す実験なのだ。
リアとコーディリア——愛を計量しようとした父
リア王
開幕のリアがやろうとしていることは、よく見ると奇妙だ。彼は国土という財産の分配を、愛の申告という言葉と交換しようとしている。愛を多く語った娘に、多くの土地を。つまり愛の計量化だ。姉二人はこの取引の本質を見抜いて、相場どおりの誇張を支払う。コーディリアだけが、この取引自体を拒む。
I love your majesty / According to my bond; nor more nor less.
私は陛下を、子としての務めのままに愛しています。それ以上でも、以下でもなく。(拙訳)
『リア王』第1幕第1場
「務め(bond)のままに」。冷たい返事に聞こえるが、彼女は続けてこう説明する。私はやがて結婚します、そのとき愛の半分は夫のものになります、父上だけを全部愛すると言った姉たちは、ではなぜ結婚したのですか——。完璧な正論だ。娘の愛は、父を全部愛したままでは大人になれない。コーディリアは、娘が父を「手放す」側の論理を、たぶんシェイクスピア劇で初めて言語化した人なのだ。
リアはこの正論に激怒し、彼女を持参金ゼロで勘当する。注目したいのは、このときのリアの言葉が徹底して財産の語彙だということだ。「真実をお前の持参金にするがいい」。愛の計量に失敗した父は、娘を財産ごと帳簿から消す。そして劇の残り全部を使って、帳簿に載らない愛——見返りも申告もない、コーディリアの愛——を、すべてを失ってから学び直すことになる。終幕、死んだ娘を抱いて彼が上げる絶叫は、開幕の「愛の計量」への、5幕分かけた返済だ。
シャイロックとジェシカ——「娘よ! 金貨よ!」
ヴェニスの商人
娘に逃げられた父の反応として、シェイクスピアが書いた中でいちばん残酷に面白く、いちばん悲しいのが、シャイロックのそれだ。彼の取り乱しぶりは、本人の登場場面ではなく、それを嘲笑する他人の伝聞として観客に届く。
My daughter! O my ducats! O my daughter! / Fled with a Christian! O my Christian ducats!
娘が! ああ、俺の金貨が! ああ、娘が! キリスト教徒と逃げた! ああ、俺のキリスト教徒に渡った金貨が!(拙訳)
『ヴェニスの商人』第2幕第8場
娘と金貨が、一つの悲鳴の中で交互に出てくる。嘲笑する側の意図は明白で、「あいつは娘と金の区別もつかない守銭奴だ」という笑い話だ。当時の観客も、たぶんそう笑った。
でも、このすぐあとにシェイクスピアは、笑えない一行を仕込んでいる。持ち出された宝石の中に、亡き妻リアが独身時代のシャイロックに贈った指輪があった。それをジェシカが猿一匹と交換したと聞かされて、シャイロックは言う。「あれは荒野いっぱいの猿とも取り替えなかった」。金額の問題ではなかったのだ。娘が持ち去ったのは、換金可能な財産と、換金不可能な記憶の、両方だった。「娘よ! 金貨よ!」の悲鳴は、娘と金の区別がつかない男の悲鳴ではなく、娘に「あなたにとって私は財産だったのか」と問われて、答えそのものを盗まれた男の悲鳴として聞き直すことができる。ジェシカの駆け落ちを無邪気なハッピーエンドとして観られなくなったとき、この劇は「問題劇」に変わる。
プロスペローとミランダ——手放し方を「演出」した父
テンペスト
最後は、いちばん屈折した父を。プロスペローは、リアともシャイロックとも違って、娘の結婚に成功する父だ。ただし、その成功のしかたが問題で——彼は娘と王子の出会いから恋の成就まで、全部を魔術で自作自演する。
嵐で王子を島に流れ着かせ、娘と出会わせ、恋に落ちるのを物陰から確認し、しかし「簡単に手に入ると軽んじられる」からと、わざと王子に試練を課して恋の値打ちを吊り上げる。THEME 04の言い方を借りれば、プロスペローは娘の恋愛の劇作家兼演出家だ。娘が自分で選んだ恋は、実は最初から父の台本どおりなのである。
では彼は娘を駒として扱う冷たい父なのかというと、台詞はもっと複雑な音を立てる。王子に娘を与える場面で、プロスペローはこう言う。
I have given you here a third of mine own life, / Or that for which I live.
私はいま、我が命の三分の一を——いや、私が生きる理由そのものを、あなたに渡したのだ。(拙訳)
『テンペスト』第4幕第1場
「与えた(given)」という所有の動詞と、「生きる理由そのもの」という愛の語彙が、一文の中で同居している。リアが5幕かけて学んだこと——娘は財産ではないが、手放すときの痛みは財産のそれとして襲ってくる——を、プロスペローは知った上で、それでも手放す。彼の魔術による過剰な演出は、支配欲というより、手放す痛みを「自分の采配で手放した」という形に変えるための、父親の儀式に見えてくる。この劇の最後でプロスペローは魔術そのものを捨てるが、娘の結婚はその直前に置かれている。娘を手放すことと、全能を手放すことは、この父の中でほとんど同じ出来事なのだ。
並べてみて見えること——晩年のシェイクスピアは、父娘の和解ばかり書いた
三人の父を並べ直す。リアは愛を財産の言葉で計ろうとして娘を失い、死の間際に取り戻した。シャイロックは財産と一緒に、財産ではなかったはずのものまで持ち去られた。プロスペローは、失う前に、手放す練習を自分に課した。どの父も、愛と所有の区別が最後までつききらない。シェイクスピアは、父の愛をきれいごとにしない。愛と支配が同じ手つきで現れてしまうことを、執拗に書く。
その上で、興味深い事実がひとつある。晩年のシェイクスピアは、父と娘の再会と和解の物語ばかり書いたのだ。『ペリクリーズ』は失った娘マリーナとの再会で父が蘇生する話であり、『冬物語』(THEME 02)は捨てた娘パーディタの帰還が一家を救う話であり、『テンペスト』は娘の結婚が父の和解と赦しの中心にある。悲劇時代に娘を殺された父(リア)を書いた人が、最後の数年は、娘に救われる父を繰り返し書いて筆を置いた。
伝記と結びつけるのは慎重であるべきだけれど——シェイクスピア自身、二人の娘の父であり、一人息子ハムネットを11歳で亡くした人だ。晩年の彼が娘の結婚を現実に見送る年齢で、これらの再会劇を書いていたことは、事実として記しておきたい。父と娘の物語が、計量の失敗(リア)から始まって、祝福の練習(プロスペロー)で終わる。この曲線そのものが、一人の書き手が「手放す」ことを学んでいった記録のようにも、僕には見える。