THEME 03

異性装とジェンダー
——男装のヒロインと少年俳優

十二夜/お気に召すまま/ヴェニスの商人

シェイクスピアの喜劇には、男装するヒロインがくり返し登場する。難破して男のふりをするヴァイオラ。森へ逃げるために男装するロザリンド。法学者に化けて法廷に立つポーシャ。数えると、男装ヒロインが出てくる劇は少なくとも5本ある。よほど気に入った仕掛けだったのだろう。

ただ、これを「ロマコメの変装ネタ」として消費するには、当時の劇場にはあまりに大きな事情があった。女性の役は、すべて少年俳優が演じていたのだ。つまり舞台の上の「男装した女」は、実際には「女を演じる少年が、さらに男を演じている」という三重底になっている。

この記事では、男装ヒロインの代表格3人——ヴァイオラ、ロザリンド、ポーシャ——を、男装の「目的」の違いで並べてみたい。そうすると、シェイクスピアが服一枚でどこまでのことを実験していたかが見えてくる。

前提——舞台の上に、女性は一人もいなかった

まず前提から。シェイクスピア時代のイングランドの商業劇場では、女性が舞台に立つことはなかった。法律で明文的に禁じられていたというより、強固な慣習だった。ジュリエットも、クレオパトラも、マクベス夫人も、初演の舞台ではすべて変声期前後の少年か若い男性が演じている。イングランドの商業劇場に女優が登場するのは1660年、王政復古以降のことだ。

当時、この慣習には批判もあった。清教徒の論客たちは「男が女の服を着るのは聖書に反する」と劇場そのものを攻撃していた。つまり異性装は、当時すでに宗教的・政治的な争点だったのだ。その渦中で、シェイクスピアは「女装した少年」に、さらに「男装」をさせる劇を何本も書いた。攻撃されている当の仕掛けを、劇の中心に据えて遊んでみせた——ここにはやはり、確信犯的なものを感じる。

ヴァイオラ——生き延びるための男装が、檻になる

十二夜

作品メモ 嵐で難破し、双子の兄とはぐれて見知らぬ国イリリアに流れ着いたヴァイオラは、身を守るため男装して「シザーリオ」と名乗り、オーシーノ公爵に小姓として仕える。公爵は伯爵令嬢オリヴィアに恋しており、ヴァイオラは恋文の使者を命じられる。だがヴァイオラは公爵に恋してしまい、オリヴィアは使者のシザーリオに恋してしまう。

ヴァイオラの男装は、3人の中でいちばん切実だ。彼女は望んで男になったのではない。難破して身寄りを失った若い女性が、見知らぬ土地で安全に働くための、ほとんど唯一の手段が男装だった。

ところがこの変装が、すぐに檻になる。仕える主人に恋をしてしまったが、小姓の「シザーリオ」である限り打ち明けられない。それどころか、主人が別の女性に送る恋文の使者をやらされる。さらにその相手のオリヴィアが、男装した自分に恋をしてしまう。ヴァイオラは、オリヴィアに対して意味深な警告を口にする。

I am not that I play.

私は、演じているものとは違うのです。(拙訳)

『十二夜』第1幕第5場

そして一人になったとき、変装というものの厄介さを、こう嘆く。

Disguise, I see, thou art a wickedness, / Wherein the pregnant enemy does much.

変装よ、おまえは悪だ。抜け目ない悪魔が、おまえの中で好き放題に働くのだから。(拙訳)

『十二夜』第2幕第2場

この劇の切なさが最高潮になるのが、公爵と「男同士」として恋愛談義をする場面だ。「女はそれほど深く愛せない」と語る公爵に、ヴァイオラは反論する。自分の恋を、実在しない「父の娘」の物語に託して。

My father had a daughter loved a man, / As it might be, perhaps, were I a woman, / I should your lordship. ... She never told her love, / But let concealment, like a worm i' the bud, / Feed on her damask cheek.

父にはひとり娘がおりました。その娘はある男を愛していました——ちょうど、もし私が女なら、あなたを愛したかもしれないように。……娘は想いを決して口にせず、秘めたまま、つぼみに巣くう虫のように、その想いに頬の色を食い荒らさせたのです。(拙訳)

『十二夜』第2幕第4場

「もし私が女なら」——女である本人が、男の姿で、仮定形でしか本当のことを言えない。THEME 01で見た「狂気だけが真実の通り道になる」のと同じ構造が、ここでは異性装で起きている。偽りの姿のときにだけ、いちばん深い本音が言えるのだ。しかも公爵は、この告白の意味を知らないまま、「シザーリオ」との対話を通じて確実に心を通わせていく。終幕で正体が明かされたとき、公爵があっさりヴァイオラとの結婚を宣言できるのは、実はもうとっくに「彼」と親密だったからだ。では公爵が愛したのは、女性のヴァイオラなのか、小姓のシザーリオなのか。劇は最後まで、その線引きを曖昧なままにしている。

ロザリンド——男装を「遊び場」に変えた、シェイクスピア最強のヒロイン

お気に召すまま

作品メモ 公爵の娘ロザリンドは宮廷を追放され、従妹シーリアとともに男装して「ガニメデ」と名乗りアーデンの森へ逃れる。森には、彼女に一目惚れした青年オーランドーも来ていて、木々にロザリンドへの恋の詩を貼りまくっている。ロザリンドは正体を隠したまま、「恋の治療をしてやる。僕をロザリンドだと思って口説いてみろ」と持ちかける。

ヴァイオラにとって檻だった男装を、遊び場に変えてしまったのがロザリンドだ。彼女も最初は身を守るための男装だった。ところが森に着いて安全になったあとも、彼女は男装を解かない。それどころか、男装を利用して、想い人に自分を口説かせるという離れ業を始める。

ここで起きていることを、初演の舞台で分解してみると、めまいがしてくる。少年俳優が(1)、ロザリンドという女性を演じ(2)、そのロザリンドがガニメデという男に変装し(3)、そのガニメデが「ロザリンドのふり」をしてオーランドーに口説かれる(4)。四層構造だ。観客は「少年が演じる女が演じる男が演じる女」を見ながら、それでもちゃんと恋物語として感動できてしまう。

この構造が可能にしているのは、本音と演技の無敵の組み合わせだ。ガニメデの「ロザリンドごっこ」の中でなら、彼女は想い人に何でも言える。愛の言葉も、結婚への皮肉も、嫉妬の予告も、すべて「ふりの中の台詞」として。オーランドーへの気持ちは本物なのに、それを伝える回路は全部フィクション。THEME 01のハムレットが狂気のふりの中で本音を言えたのと同じで、ロザリンドは男装の中でだけ、誰よりも自由になる。

そして『お気に召すまま』は、この遊びを幕が下りる瞬間まで手放さない。劇の最後、エピローグを語るのはロザリンドだ。女性の登場人物がエピローグで観客に直接語りかけるのは、当時としては異例の趣向——なのだが、その台詞がすごい。

If I were a woman I would kiss as many of you as had beards that pleased me.

もし私が女なら、お客様の中の、素敵なひげの殿方みんなにキスをして差し上げるのですが。(拙訳)

『お気に召すまま』エピローグ

「もし私が女なら」。ロザリンドを演じきった少年俳優が、最後の最後に素の姿を半分見せて、観客に種明かしのウィンクをする。あれだけ本物の恋を演じておいて、「演じていたのは少年ですよ」と自分でバラして終わる。ジェンダーは衣装のように着たり脱いだりできる——そのことを、劇場全体を巻き込んだ仕掛けとして見せてしまった台詞だと思う。

ポーシャ——恋のためではなく、力のための男装

ヴェニスの商人

作品メモ ベルモントの女相続人ポーシャは、亡父の遺言による「箱選び」でバサーニオと結ばれる。一方ヴェニスでは、バサーニオの親友アントーニオが、金貸しシャイロックに「返済できなければ肉1ポンド」の証文で借金をし、返済不能に。ポーシャは若い法学者「バルサザー」に変装し、裁判の場に乗り込む。

ヴァイオラとロザリンドの男装が恋愛の文脈にあるのに対して、ポーシャの男装は毛色が違う。彼女が男になるのは、女のままでは入れない場所——法廷——に入るためだ。

ポーシャは莫大な財産の相続人で、頭の回転は劇中の誰よりも速い。それでも女性である限り、夫の選択は父の遺言に縛られ、公の場で発言する資格はない。その彼女が法服を着て「バルサザー」になった途端、ヴェニスの法廷全体が彼女の独擅場になる。あの有名な「慈悲は強いられるものではない」の演説をし、シャイロックの証文の穴を突き、誰一人としてなしえなかった逆転劇をやってのける。劇中でいちばん有能な人物が、男の服を着たときにだけ、その有能さを社会に発揮できる。この皮肉は、たぶん書いた本人も自覚的だ。男装への出発前、ポーシャは男というものをこう茶化している。

They shall think we are accomplished / With that we lack ... I have within my mind / A thousand raw tricks of these bragging Jacks, / Which I will practise.

殿方たちは、私たちに欠けているものが備わっていると思い込むでしょう。……自慢屋の男たちのやる粗野な手管なら、頭の中に千ほど入っています。それを実演してみせますわ。(拙訳)

『ヴェニスの商人』第3幕第4場

「男らしさ」とは、大股で歩き、声を張り、経験もないのに決闘自慢をすること——ポーシャはそれを「手管(トリック)」と呼び、練習すれば身につく技術だと言い切っている。男らしさが技術なら、女らしさも技術だ。生まれつきの本質ではなく、演じられるふるまいの束。現代のジェンダー論が理屈で言うことを、ポーシャは400年前に実践でやっている。

そして見逃せないのは、男装が解けたあとも、ポーシャの優位が続くことだ。彼女は法廷で夫バサーニオから(正体を隠したまま)自分が贈った指輪を巻き上げ、帰宅後にそれをネタに夫を締め上げる。「その指輪、どうしました?」。夫は法廷での恩人が妻だったと知らない。結婚生活の主導権が誰にあるかを、彼女は最初の夜に確定させてしまうのだ。男装は解けても、男装で手に入れた力は返さない。3人の中でいちばんしたたかな異性装だと思う。

並べてみて見えること——服を替えると世界の扱いが変わる、という実験

3人の男装を目的で並べ直すと、こうなる。ヴァイオラは生存のため(そして男装が檻になる)。ロザリンドは自由のため(男装が遊び場になる)。ポーシャは力のため(男装が武器になる)。

三者三様だが、共通していることがひとつある。3人とも、中身は何ひとつ変わっていないことだ。変わったのは服と名前だけ。それなのに、周囲の世界の扱いが一変する。急に対等に話してもらえる。急に法廷で発言できる。急に安全に旅ができる。つまりこの劇たちが舞台の上でくり返し実験しているのは、「その人がどう扱われるかは、その人の中身ではなく、着ているものが決めているのではないか」という問いだ。

そしてこの問いは、少年俳優の存在によって、劇の外側まで貫通する。舞台の上の「女らしさ」は、そもそも全部、少年が技術として演じたものだった。観客がジュリエットの可憐さに流した涙は、演技の産物だ。だとしたら、舞台の外の「女らしさ」「男らしさ」は、どこまでが生まれつきで、どこからが演技なのか——。

断定はしないでおく。ただ、ロザリンドのエピローグであの種明かしを聞いた観客が、劇場を出て家に帰る道すがら、すれ違う人々の「らしさ」を少しだけ疑って見た可能性は、あると思う。400年前の芝居小屋は、たぶん僕たちが思っているよりずっとラディカルな場所だった。

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