職場の「いい人」がいちばん怖い理由
——「誠実なイアーゴー」の話
オセロー
「あの人はいい人だから」で通ってしまう人が、職場にいることがある。悪い評判をまったく聞かない。誰にでも感じがよく、頼めばだいたい引き受けてくれる。ところが何年か経ってから振り返ると、話がこじれた場面にはたいていその人がいた——そういう記憶が、ぽつんと残ることがある。
断っておくと、これは「いい人ほど裏がある」という話ではない。いい人はたいてい、本当にいい人だと思う。気になるのは人の性格のほうではなく、「いい人だから」という一言が、周りの検証を止めてしまうという構造のほうだ。そしてこの構造を、シェイクスピアが一本の劇まるごと使って書ききっている。『オセロー』のイアーゴーである。
この男は、劇中でくり返し「誠実な」と呼ばれる
この劇を読んでいて最初に妙だと感じるのは、イアーゴーが何度も「honest(誠実な、正直な)」と形容されることだ。しかもそう呼ぶのは、彼にだまされていく側の人間ばかりである。オセローは彼を「誠実なイアーゴー」と呼びかけ、妻を預ける。キャシオーは自分を陥れた張本人に助言を求める。デズデモーナも彼を頼りにする。
疑いを吹き込まれたオセローが、その吹き込んだ相手をこう評する場面がある。
This fellow's of exceeding honesty, / And knows all qualities, with a learned spirit, / Of human dealings.
この男は並外れて誠実だ。しかも人間のやりとりというものを、その質のすべてにわたって、学のある目で知り抜いている。(拙訳)
『オセロー』第3幕第3場
誠実で、しかも人間を知り抜いている。褒め言葉としては最上級だと思う。そしてこの評価が下される場面こそ、イアーゴーがオセローの心に疑いを植えつけている、まさにその最中なのだ。
一方で観客は、劇の最初の場面ですでに種明かしを聞かされている。
I am not what I am.
俺は、見かけどおりの俺ではない。(拙訳)
『オセロー』第1幕第1場
これを聞いているのは客席だけだ。舞台の上の人間は、誰一人この自己申告を知らないまま、終幕で暴かれるまで彼を「誠実な」と呼び続ける。THEME 04で書いたとおり、シェイクスピアの悪役は観客とだけ回線がつながっている。この劇の息苦しさは、ほぼそこから来ていると思う。
彼の武器は、嘘ではない
ここからが本題だ。イアーゴーの手口を「嘘つき」と要約すると、たぶん取り違える。彼は嘘もつく。オセローに聞かせるキャシオーの寝言は完全な作り話だし、「キャシオーがあのハンカチで髭を拭くのを見た」も嘘だ。それでも、彼の武器の本体は嘘ではないと思う。
キャシオーは実際にデズデモーナと親しく話しているし、彼女は実際にキャシオーの復職を熱心にとりなしている。オセローが見せられる材料の多くは、現実に起きた出来事なのだ(有名なハンカチだけは彼が自分で仕込んでいる。だが仕込みはそれ一つきりで、あとは配置の仕事だ)。イアーゴーがやっているのは、事実を一から作ることではなく、事実の断片を、疑いたくなる順番で置くことである。先にキャシオーが立ち去るところを見せ、そのあとで意味ありげに口ごもる。順番だけで、同じ光景の意味が変わる。
本人がその原理を、あっさり言葉にしている。
Trifles light as air / Are to the jealous confirmations strong / As proofs of holy writ.
空気のように軽い、取るに足らないものでも、嫉妬している者にとっては、聖書の証しと同じくらい強い裏づけになる。(拙訳)
『オセロー』第3幕第3場
証拠の重さは、証拠そのものではなく受け取る側の状態で決まる——そう彼は言っている。だから彼は重い証拠を用意しない。相手の側を先に傾けておいて、そこへ軽いものを落とすだけでいい。THEME 12では、アントニーやヘンリー五世の演説を「人を動かす台詞の設計」として読んだけれど、イアーゴーはその設計術のちょうど暗い面にいる。表の説得が群衆を一気に動かすのに対して、彼は一人の人間の中に、時間をかけて解釈の枠組みを据えつける。
その彼が、よりによって「見せかけ」について説教する場面がある。
Men should be what they seem; / Or those that be not, would they might seem none!
人は、見えるとおりの者であるべきだ。そうでない者は、いっそそう見えなければいいのに。(拙訳)
『オセロー』第3幕第3場
自分にそっくり跳ね返ってくる台詞を、彼はまっすぐな顔で言う。しかも文脈上は「キャシオーは見かけと中身が違うかもしれない」という含みで機能する。自分の正体を言い当てた文を、他人を疑わせる道具として使っているわけだ。ここまでくると、うまいと言うほかない。
なぜ「いい人」の評判が武器になるのか
では、なぜ彼のやり方が効くのか。僕の読み方では、答えは彼の性格ではなく、彼の評判にある。
人は、情報の中身だけを見て判断しているわけではないのだと思う。「誰が持ってきた情報か」で、検証の量を無意識に変えている。日ごろ揉め事の多い人が誰かの悪評を持ってくれば、僕たちはたぶん一拍置く。裏を取ろうとするし、別の人にも聞いてみる。ところが評判のいい人が同じ話を持ってくると、その一拍が入らない。いい人の情報は、検問所を素通りするのだ。
イアーゴーが強いのは、悪意が強いからではない。悪意なら他の登場人物にもある。彼が強いのは、その悪意を運ぶ経路が、すでに検査済みの扱いになっているからだ。彼は自分で自分を「誠実」と名乗ってはいない。周りが彼をそう呼び、その呼び名が彼の運ぶものを通してしまう。
彼はそのことを、はっきり自覚している。
And what's he then that says I play the villain? / When this advice is free I give and honest, / Probal to thinking and indeed the course / To win the Moor again?
それで、俺が悪党を演じていると言うのはどこの誰だ。俺が与えているこの助言は、下心なしの誠実なもので、理屈に合っていて、実際、あのムーアの信用を取り戻すための正しい道筋ではないか。(拙訳)
『オセロー』第2幕第3場
ここで彼が挙げている弁明は、じつは全部そのとおりなのだ。彼がキャシオーに与えた助言——デズデモーナに口添えを頼め——は、手順として本当に正しい。正しい助言をして、その助言の結果を毒に変える。だから後から検証しても、彼の発言は一つ一つは白いままだ。黒いのは配置のほうであって、部品ではない。
ついでに言えば、これは借り物のペルソナの話でもある。LENS 01で、借りたキャラが許されるかどうかは「何のためで、何を差し出しているか」で決まる、という線引きを書いた。イアーゴーはその両方を裏切っている。彼が「誠実な男」の顔を借りるのは完全に自分の得のためで、代償は一つも払っていない。しかも彼が使い切ったあと、その顔は本人だけでなく、これから誠実であろうとする他の全員の信用から差し引かれる。
補助線——本心を知っているのは、観客だけだ
ここで一つ、正直に置いておきたいことがある。この記事を読みながら「あの人のことだ」と誰かの顔が浮かんだとしても、その確信は劇の外では手に入らない、ということだ。
僕たちがイアーゴーを見抜けるのは、彼が客席に向かって本心を喋ってくれるからにすぎない。舞台の上には、劇のほとんどを通じて、彼を見抜けた人物が一人もいない。最後に暴くのは妻のエミーリアだが、それは彼女が夫に刺されて命を落とす場面でのことだ。オセローは軍人としては優秀な男だし、デズデモーナは思慮のある人だ。それでも見抜けない。彼らが愚かなのではなく、独白を聞く特権が劇場の中にしかないのだと思う。この非対称は、THEME 04で見たシェイクスピアの悪役全般に共通している。
だから、この劇から「感じのいい人を疑え」という教訓を取り出すのは、たぶん筋が悪い。それをやると、今度は自分がイアーゴーの側に回ってしまう。彼の仕事はまさに、根拠のない疑いを人の頭の中に据えつけることだったのだから。
怖いのは「いい人」ではなく、検証を省く自分のほう
結局、この劇が突きつけてくるのは、こういうことなのだと思う。怖いのは「いい人」そのものではなく、「いい人だから」で確認を一段飛ばしてしまう自分の側だ。イアーゴーが利用したのは人間の善良さではなく、善良さの評判が持つ通行証としての機能だった。そして通行証を発行しているのは、周りにいる僕たちのほうである。
対策らしい対策があるとすれば、たぶんひとつだけだ。情報の重さを、運んできた人の感じのよさで割り引かないこと。人柄への信頼と、話の裏取りを別々の勘定にしておくこと。これは疑うこととは違うと思う。むしろ、いい人をいい人のまま扱い続けるために必要な手間だという気がする。
劇の最後、正体を暴かれてからのイアーゴーは、あれほど饒舌に動機を並べていた男とは別人のように、一言も説明しないまま囚人として引き立てられていく。誰も彼の内側を確かめられないまま、劇は終わる。あの沈黙が今も効くのは、彼が特別な怪物だからではなく、僕たちの周りの誰についても、内側は結局のところ確かめようがないからなのだと思う。だからせめて、自分が何を検証せずに通したかくらいは、覚えておきたい。