悪役はなぜ観客に語りかけるのか
——独白が作る「共犯関係」
リチャード三世/オセロー/リア王
シェイクスピア劇の悪役には、妙な習性がある。舞台に一人になると、客席に向かって、これからやる悪事をぺらぺら喋るのだ。
リチャード三世は開幕そうそう「私は悪人になると決めた」と犯行予告をする。イアーゴーは、オセローを破滅させる計画の進捗を、幕ごとに観客へ報告してくれる。エドマンドは父と兄をだます手口を、実演つきで解説する。被害者たちは何も知らない。知っているのは、悪役本人と、観客だけ。
考えてみれば奇妙な話だ。なぜ悪役ほど観客と親密なのか。なぜ僕たちは、悪事の一部始終を知らされながら、それを止められない席に座って、あろうことか少し楽しんでしまうのか。この記事では、三大悪役——リチャード三世、イアーゴー、エドマンド——の「語りかけ」を並べて、この共犯関係の仕掛けを考えてみたい。
前提——独白は「嘘をつかない」という約束
まず、当時の演劇の約束事をひとつ。シェイクスピア劇には「独白(ソリロキー)」という装置がある。舞台上に一人残った人物が、心の内をそのまま声に出す。そして観客は、独白の内容を基本的に本心として受け取っていい、という暗黙のルールがあった。人物は他の登場人物には嘘をつくが、独白では嘘をつかない。
当時の劇場の構造も効いている。グローブ座のような劇場は張り出し舞台で、役者は三方から観客に囲まれ、昼間の野外で客の顔が見えた。つまり「客席に語りかける」のは、暗闇に向かって喋る現代劇よりずっと直接的な、目が合う行為だった。この装置を誰よりも使い倒したのが、悪役たちだ。ハムレットの独白が自分への問いかけ(To be, or not to be)だとすれば、悪役の独白は観客へのプレゼンテーションに近い。ここからは、そのプレゼンの名手たちを見ていく。
リチャード三世——開幕から観客を「相棒」にする男
リチャード三世
リチャードのすごさは、劇の第一声からいきなり観客に語りかけることだ。有名な「今や我らが不満の冬も」で始まる開幕独白で、彼は平和の訪れを皮肉り、戦争でしか輝けない自分の身の上を語り、そして宣言する。
And therefore, since I cannot prove a lover, / To entertain these fair well-spoken days, / I am determined to prove a villain, / And hate the idle pleasures of these days.
だから、色男になってこの太平の世を楽しむことができない以上、俺は悪人になってみせると決めたのだ。当世のくだらぬ快楽を憎んでやると。(拙訳)
『リチャード三世』第1幕第1場
「悪人になると決めた(determined to prove a villain)」。開幕30行で、観客は主人公の犯行計画を全部聞かされてしまう。以後、観客はリチャードの犯行を「知りながら見る」ことになる。彼が兄を、政敵を、甥を欺くたび、その嘘を見抜けるのは客席だけ。リチャードはことあるごとに振り返って、うまくいっただろう?と観客に目配せする。
その最たるものが、アン王女の求婚の場面だ。リチャードは、自分が夫と義父を殺した相手であるアンを、その義父の棺の前で口説き落としてしまう。そして彼女が去った直後、観客に向かってこう自慢するのだ。
Was ever woman in this humour woo'd? / Was ever woman in this humour won?
こんな状況で口説かれた女がかつていたか? こんな状況で落とされた女がいたか?(拙訳)
『リチャード三世』第1幕第2場
ひどい台詞だ。ひどい台詞なのだが、劇場ではここで笑いが起きる。観客はもう、リチャードの手口の観察者ではなく、芸の目撃者にさせられている。悪事が「芸」に見えてしまったら、観客は半分共犯だ。リチャードの人気の秘密は、悪の魅力というより、この共犯にさせる話術のほうにあると思う。ちなみに彼の転落は、王位を手に入れて独白が減っていくのと、きれいに同時に進行する。観客との回線が切れたとき、リチャードの魔力も切れるのだ。
イアーゴー——動機を語りすぎる男の、動機のなさ
オセロー
リチャードの語りが「芸の披露」なら、イアーゴーの語りは「進捗報告」だ。彼は幕が進むごとに独白で観客に計画を説明し、修正し、次の一手を予告する。観客はオセローが壊れていく過程を、設計図つきで見せられる。この劇の息苦しさは、ほぼこの構造から来ている。客席だけが全部知っていて、舞台の上では誰も気づかない。
イアーゴーが面白いのは、動機を語りすぎることだ。昇進でキャシオーに先を越されたから。オセローが自分の妻と関係したという噂があるから。デズデモーナを自分も愛しているから。独白のたびに違う動機が出てきて、どれも本気で言っているように聞こえない。19世紀の批評家コールリッジはこれを「動機なき悪意の、動機探し」と呼んだ。悪意が先にあって、理由は後づけされているように見える、というわけだ。
本人は、自己紹介のようにこう言ってのける。
I am not what I am.
俺は、見かけどおりの俺ではない。(拙訳)
『オセロー』第1幕第1場
短い台詞だが、よくできている。聖書で神が名乗る言葉「I am that I am(私は在りて在る者)」を、ちょうど裏返した形になっているのだ。存在がそのまま真実である神に対して、存在がそのまま偽りである男。シェイクスピアの観客は聖書の言い回しを耳で知っていたから、この反転はぞっとする響きを持ったはずだ。
そして、あれだけ観客に喋り続けたイアーゴーは、悪事が露見した瞬間、こう言って口を閉ざす。
Demand me nothing: what you know, you know: / From this time forth I never will speak word.
何も聞くな。知っていることは、知っているとおりだ。今この時から、俺は一言も喋らない。(拙訳)
『オセロー』第5幕第2場
拷問にかけても喋らないまま、彼は退場する。観客にあれほど饒舌だった男が、劇中の人物たちには最後まで動機を明かさない。つまり彼の「本心」を聞いた者は、この世界に観客しかいないのだ。僕たちは、誰よりも彼を知ってしまった唯一の証人として、劇場に置き去りにされる。この後味の悪さは、共犯者だけが味わえるものだと思う。
エドマンド——観客の「納得」を先に取りつける男
リア王
三人目のエドマンドは、語りかけの使い方がまた違う。彼が最初の独白でやるのは、犯行予告の前に、自分の境遇のプレゼンだ。
Thou, Nature, art my goddess; to thy law / My services are bound. Wherefore should I / Stand in the plague of custom?
自然よ、おまえこそ我が女神。俺が仕えるのはおまえの法だけだ。なぜ俺が、世間のしきたりという疫病に従わねばならない?(拙訳)
『リア王』第1幕第2場
庶子に生まれただけで、なぜ「卑しい」と呼ばれ、相続権もないのか。体も頭も嫡子の兄に劣らないのに、なぜ生まれた順番と手続きだけで人生が決まるのか——。この訴えは、正直、かなり筋が通っている。観客はまず彼の不満に頷かされ、頷いた直後に、その不満が犯罪計画に変わるのを見せられる。リチャードが観客を笑わせて巻き込むなら、エドマンドは納得させて巻き込むのだ。
もうひとつ、エドマンドの独白には近代的な切れ味がある。星占いを信じる父を、彼は陰でこう笑う。
This is the excellent foppery of the world, that, when we are sick in fortune ... we make guilty of our disasters the sun, the moon, and the stars.
これだから世間は救いがたい阿呆なのだ。運が傾くと……自分の災いの罪を、太陽や月や星になすりつける。(拙訳)
『リア王』第1幕第2場
不幸は星のせいではなく、人間のせい。運命論を鼻で笑い、すべてを自分の才覚で切り開こうとする。この合理主義は、現代の観客にはむしろ格好よく響いてしまう。シェイクスピアの悪役は、しばしば劇中の誰よりも「近代人」なのだ。旧い秩序の側に立つ善人たちより、それを壊す悪役のほうが、観客の生きている時代に近い考え方をしている。悪役に魅力を感じてしまう理由の何割かは、たぶんここにある。
ただしエドマンドには、他の二人にない結末が用意されている。瀕死の床で、彼は「自分の性分に逆らってでも、何か善いことをしたい」と言い、処刑を命じたコーディリアたちを救おうとするのだ(間に合わないのだが)。観客に悪を納得させ続けた男の、最後の一瞬の方向転換。ここをどう読むかは分かれるところで、僕は「自然の法」だけで生きた男が、最期に初めて理屈に合わない行動をした——そこにこの人物の底があると読んでいる。
並べてみて見えること——悪役は、劇中にいるもう一人の「劇作家」だから
三人の語りかけを並べ直す。リチャードは観客を笑わせて共犯にする。イアーゴーは観客を唯一の証人にする。エドマンドは観客を納得させて味方につける。手口は違うが、三人とも、舞台の誰よりも観客との回線が太い。
なぜ悪役ばかりが観客と親密なのか。並べてみて浮かぶ答えはこうだ。彼らは劇中にいる、もう一人の劇作家だから。リチャードは求婚の場面を自分で演出し、イアーゴーはオセローに見せる「証拠」の場面を舞台監督のように仕組み、エドマンドは偽の手紙で登場人物たちを動かす。筋書きを書き、配役し、他の人物に台本どおり演じさせる——悪役の仕事は、劇作家の仕事とほとんど同じなのだ。だとすれば、彼らが観客に進捗を語りたがるのは当然かもしれない。作り手は、観せる相手を必要とする。
そして観客の側も、この共犯関係から得ているものがある。日常では決して立てない場所——道徳の外側から世界を眺める視点——を、劇の二時間だけ、安全に借りられることだ。幕が下りれば悪役は必ず滅び、観客は道徳の内側に帰っていく。帰り道が保証されているからこそ、僕たちは安心して悪の視点を楽しめる。シェイクスピアの悪役が400年愛されてきたのは、悪が魅力的だからというより、悪の視点を安全に貸し出す仕組みとして、独白という装置があまりに良くできていたからだと思う。