嫉妬はなぜ止められないのか
——証拠がなくても始まる病気
オセロー / 冬物語
根拠がないことは、自分でもわかっている。それなのに、いったん頭に入ってしまった疑いが出ていってくれない。相手が説明してくれても、その説明の滑らかさがかえって引っかかる。しばらく経って、あれは完全に自分の思い過ごしだったと判明することもある。それでも、あの数日のあいだに感じていたものは、たしかにそこにあった。
嫉妬というのは不思議な感情だと思う。怒りや悲しみと違って、対象が実在するとはかぎらない。にもかかわらず、体のほうは全力で反応する。眠れなくなるし、食欲も落ちる。存在しないかもしれないものに、これだけ消耗させられる感情がほかにあるだろうか。
この感情については、英語圏の語彙そのものを作ってしまった劇がある。
嫉妬に「怪物」という顔を与えたのは、この劇だ
英語で嫉妬を指す「the green-eyed monster(緑の目の怪物)」という表現は、この劇から日常語になったものだ(「緑の目の嫉妬」という言い方自体は『ヴェニスの商人』第3幕第2場にすでにある。それを「怪物」に育てて定着させたのがこちらだ)。日常英語にどれだけシェイクスピアの台詞が埋まっているかはCOLUMN 03で書いたが、この一語はとりわけ生々しい。言うのは、疑いを吹き込んでいる当のイアーゴーである。
O, beware, my lord, of jealousy; / It is the green-eyed monster which doth mock / The meat it feeds on; that cuckold lives in bliss / Who, certain of his fate, loves not his wronger; / But, O, what damned minutes tells he o'er / Who dotes, yet doubts, suspects, yet strongly loves!
ご注意ください、将軍、嫉妬というものに。あれは緑の目をした怪物で、自分が食う肉をもてあそびながら食うのです。妻を寝取られた男でも、自分の身の上をはっきり知っていて、寝取った相手を愛してさえいなければ、まだ幸せに暮らせます。しかし、溺れながら疑い、疑いながらなお強く愛している者は、ああ、どれほど呪われた時間を数えることか。(拙訳)
『オセロー』第3幕第3場
「溺れながら疑い、疑いながらなお強く愛している」。ここが要点だと思う。嫉妬が苦しいのは、愛が減るからではなく、愛が減らないまま疑いだけが積み上がるからだ。憎いだけなら、たぶんもっと楽なのだと思う。
そしてこの劇が丁寧に書いているのは、この感情が頭ではなく体に来るということだ。疑いを抱えた将軍は、しだいに言葉が壊れていき、意味の通らない断片を口走るようになり、ついには第4幕で人前で倒れて意識を失う。判断の問題として始まったものが、数場のうちに身体の症状になる。嫉妬を「病気」と呼びたくなるのは、この経路のせいだろうと思う。
ただし、この劇には大きな但し書きがつく。オセローの嫉妬には操作者がいる。イアーゴーが順番を組み、材料を配置し、ハンカチという小道具まで用意している。その手口そのものについてはLENS 03で一本まるごと書いたので、この記事では立ち入らない。ここで立てたいのは、その先の問いだ。吹き込む人がいなければ、嫉妬は起きないのか。
レオンティーズには、イアーゴーがいない
シェイクスピア自身が、その問いに答えを出している。晩年の『冬物語』である。
この劇に、イアーゴーにあたる人物は出てこない。誰も王に何も吹き込まない。妻が旧友を引き止めるのに成功した、ただそれだけを見て、レオンティーズは独りで走り出す。
Too hot, too hot! / To mingle friendship far is mingling bloods. / I have tremor cordis on me: my heart dances; / But not for joy; not joy.
熱すぎる、熱すぎるぞ。友情をそこまで混ぜ合わせるというのは、血を混ぜ合わせるということだ。動悸がしてきた。心臓が踊っている。喜びで踊っているのではない。喜びではない。(拙訳)
『冬物語』第1幕第2場
妻が引き止めに成功したのは、そもそも夫が頼んだからだ。自分が出した宿題を、妻が期待どおりに達成した。それを見て、彼の心臓が「喜びではない」踊り方を始める。ここには証拠がない。事実さえない。あるのは、成功した頼みごとだけである。
もっとも、彼の疑いはこの場面より前から芽生えていたのではないか、と論じられることもあるらしい。台詞の上では第1幕第2場が発火点だが、上演では、それ以前から王が二人を見ている演出も珍しくないという。どちらに取っても、誰にも吹き込まれていないという点は動かない。
そして走り出したあとの彼が、家臣カミローに疑いを訴える台詞が、この劇でいちばん怖いところだと思う。
Is whispering nothing? / Is leaning cheek to cheek? is meeting noses? / Kissing with inside lip? stopping the career / Of laughter with a sigh? ... is this nothing? / Why, then the world and all that's in't is nothing; / The covering sky is nothing; Bohemia nothing; / My wife is nothing; nor nothing have these nothings, / If this be nothing.
ささやき合うのが、何でもないことか。頬を寄せ合うのが、鼻を突き合わせるのが、唇の内側で口づけするのが、笑いの勢いをため息で断ち切るのが。(中略)これが何でもないことなら、この世もその中身も何でもないことになる。頭上の空も何でもない、ボヘミアも何でもない。私の妻も何でもない。これが何でもないなら、この「何でもないもの」どもは、何の中身も持たないことになる。(拙訳)
『冬物語』第1幕第2場
彼が並べている項目に注目したい。ささやき、頬を寄せる、笑いの勢いをため息で断ち切る。どれも、その気で見れば親しい二人がいくらでもやっていることだ。ところが列はそこで止まらない。唇の内側での口づけ、足を絡めること、隅にこそこそ隠れること——舞台で誰も見ていないものが、見たものと同じ列に、同じ調子で並べられていく。しかも彼は途中でそれを「貞節が破れた確実な証拠」と呼ぶ。実際に見たものと、見たことにしたものが、一本の列の中で溶け合っている。そして最後は「これが何でもないなら世界そのものが無だ」という、反論しようのない形に持っていく。証拠が足りないのではない。証拠という枠組みの内側にいるつもりで、彼はもうその外に出ている。
この直後、彼は疑いを打ち明けた当のカミローに、ポリクシニーズを毒殺せよと命じる。カミローは「陛下は思い違いをしておられる」と正面から否定するのだが、それも通らない。忠実な家臣の否定は、王の中で「こいつも通じている」という材料に変換されてしまうのだ。否定されるほど確信が濃くなるという、いちばん厄介な回路が、この時点ですでに回っている。
神託が潔白を告げても、彼は信じない
ここからのレオンティーズは早い。妻を投獄し、獄中で生まれた娘を「自分の子ではない」として荒野に捨てさせ、妻を公開の法廷に引き出す。念のためにと使者を送って伺いを立てさせていたデルポイの神託が、その法廷で読み上げられる。
OFFICER: Hermione is chaste; Polixenes blameless; Camillo a true subject; Leontes a jealous tyrant; his innocent babe truly begotten; and the king shall live without an heir, if that which is lost be not found. / LEONTES: There is no truth at all i' the oracle: / The sessions shall proceed: this is mere falsehood.
廷吏「ハーマイオニーは貞淑である。ポリクシニーズに咎はない。カミローは忠実な家臣である。レオンティーズは嫉妬に狂った暴君である。その罪なき赤子は正しく生まれた子である。そして、失われたものが見つからぬかぎり、王は世継ぎのないまま生きるであろう」/レオンティーズ「神託に真実など一片もない。審理を続けよ。これはまったくの偽りだ」(拙訳)
『冬物語』第3幕第2場
ここまで露骨に書くのか、と初めて読んだとき思った。彼が求めて、彼が費用を出して、彼が信じている神から、名指しの潔白証明が届く。それでも彼は一行で退ける。証拠は嫉妬を止めない——シェイクスピアはそれを、想像できるかぎりいちばん強い証拠を持ち出して証明している。
彼を止めたものは、証拠ではなかった。その直後、幼い息子マミリアスが、母の身を案じて弱り、死んだという報せが入る。そこで初めて、王の言葉が変わる。
Apollo's angry; and the heavens themselves / Do strike at my injustice.
アポロが怒っている。天そのものが、私の不正を打ちにきたのだ。(拙訳)
『冬物語』第3幕第2場
神託では動かなかった人が、息子の死では動く。理屈が効かず、喪失が効く。ここに嫉妬という感情の性質が出ていると思う。それは論証で解ける問題として頭の中にあるのではなく、身体の側にある。だから同じ身体の層——取り返しのつかない痛み——でしか止められない。
そのあと妻は「死んだ」ことにされ、16年後に彫像として戻ってくる。あの場面の劇作術についてはTHEME 09で書いた。ただ、忘れずに置いておきたいことがある。妻は戻る。捨てられた娘も戻る。息子だけは戻らない。あれだけ和解に満ちた終幕で、シェイクスピアはその一点だけ、埋め合わせずに残している。
証拠で始まっていないものは、証拠では終われない
二人を並べると、こういうことになるのだと思う。オセローにはハンカチがあった。吹き込む者がいて、小道具があって、順番があった。だから理屈のうえでは、ハンカチの経路が判明した瞬間に嫉妬は終わる——実際、劇の最後にそれは終わる。取り返しがつかなくなってからだが、終わることは終わる。
レオンティーズには何もない。小道具も、密告者も、疑うべき出来事もない。そして何もないほうが、手に負えない。反証すべき対象が存在しないからだ。神託は「その証拠は偽です」と言えるが、証拠がないところで始まった確信には、当てる的がない。彼の嫉妬を終わらせたのは反証ではなく、息子の死という、まったく別種の出来事だった。
僕がこの二本から受け取るのは、嫉妬をどう鎮めるかという処方ではなく、順番の話だ。嫉妬は証拠で動いていない。だから証拠を集めても終わらないし、相手に説明させても終わらない。説明を求めるという行為自体が、たいてい相手を傷つけるほうに働く。それでも僕たちが説明を求めてしまうのは、証拠の形をした安心がほしいからで、そこがすでに順番の外にある。
もちろん、疑いが正しいこともあるだろうし、確かめるべき場面もあると思う。ただ、自分の中で疑いが立ち上がった瞬間を思い返してみると、そこに証拠があったためしが、僕にはあまりない。レオンティーズを笑えないのは、彼が特別に愚かだからではなく、彼の嫉妬に材料がひとつも要らなかったからだ。材料が要らないなら、誰の中でも始められる。