THEME 02

結婚は悲劇なのか
——「結婚で終わる喜劇」への疑い

じゃじゃ馬ならし/尺には尺を/お気に召すまま/冬物語

シェイクスピアの劇には、ざっくりした法則がある。悲劇は死で終わり、喜劇は結婚で終わる。『十二夜』も『お気に召すまま』も『夏の夜の夢』も、すったもんだの末に恋人たちが結ばれて、幕。いわゆる「めでたしめでたし」だ。

でも、その結婚の中身をよく見ていくと、だんだん不安になってくる。ついさっきまで別人に恋していた男。罰として結婚させられる男。プロポーズに一言も返事をしない女。そして「理想の妻」を高らかに演説する、かつてのじゃじゃ馬。

この「めでたしめでたし」は、本当にめでたいのか。この記事では、シェイクスピアの結婚の中でも特に引っかかる場面を4つ並べて、「結婚で終わる」という約束事の裏側を覗いてみたい。

前提——当時の結婚は「恋愛のゴール」ではなかった

まず前提から。シェイクスピアの時代のイングランドで、結婚はまず家と家の取り決めであり、財産の移動だった。妻の財産は原則として夫のものになり、法的にも妻は夫の庇護下に入る。恋愛結婚という発想がなかったわけではないが、親の意向と持参金が幅を利かせる世界だったことは間違いない。

面白いのは、シェイクスピアの喜劇はほぼ毎回、この「親が決める結婚」への反逆から始まることだ。ハーミアは父の決めた相手を拒んで森へ逃げ、ジュリエットは親の決めたパリスではなくロミオを選ぶ。つまり喜劇の駆動力は「自分で相手を選びたい」という欲望で、結婚はその勝利のしるしとして最後に置かれる。だからこそ、その勝利のしるしにわざわざ影を差すような書き方がされていると、「これはわざとだな」と思いたくなる。

『じゃじゃ馬ならし』——世界一有名な「服従スピーチ」は本心か

じゃじゃ馬ならし

作品メモ パドヴァの豪商の長女カタリーナは、口が悪く気性が激しい「じゃじゃ馬」として町中に知られている。そこへ持参金目当ての男ペトルーチオが現れ、強引に結婚。彼は食事を与えない・眠らせない・服を与えないという徹底した「調教」でカタリーナを従順な妻に変えていく。

結婚をめぐる居心地の悪さで言えば、まずこの作品だろう。劇の最後、すっかり「ならされた」カタリーナは、集まった夫婦たちの前で、妻の義務についての長大な演説をぶつ。

Thy husband is thy lord, thy life, thy keeper, / Thy head, thy sovereign; one that cares for thee.

夫はあなたの主人であり、命であり、守り手であり、頭であり、君主です。あなたを気づかってくれる人なのです。(拙訳)

『じゃじゃ馬ならし』第5幕第2場

I am ashamed that women are so simple / To offer war where they should kneel for peace.

恥ずかしいことです、女たちがこうも愚かで、ひざまずいて和を求めるべきところで戦を仕掛けるとは。(拙訳)

『じゃじゃ馬ならし』第5幕第2場

文字通りに読めば、これは完全服従の宣言だ。当時の観客の多くは、たぶんこれを「めでたし」として笑って観た。でも現代の上演では、このスピーチをそのまま演じることはほとんどない。皮肉たっぷりに演じる。夫に目配せしながら演じる。あるいは、空虚な目で棒読みして「調教」の恐ろしさを見せつける。同じ台詞が、演出次第で従順にも共犯にも告発にもなる。

ここで思い出したいのが、THEME 01でやった「演技か本物か」の問いだ。カタリーナのスピーチも、実は同じ構造をしている。彼女は本心から変わったのか、生き延びるために従順を「演じる」ことを覚えたのか、それとも夫婦二人だけに通じる冗談として演っているのか。台本はどれとも確定してくれない。

僕の読み方を言えば、この不確定さ自体が答えなんじゃないかと思う。「理想の妻」がスピーチという形式——つまり人前で演じられるもの——として提示されている時点で、従順な妻とは役柄である、と劇自体が言ってしまっている。結婚が「めでたし」に見えるかどうかは、その役をどんな顔で演じるか次第。そう考えると、この喜劇の後味の悪さは、400年前からずっと仕込まれていたことになる。

『尺には尺を』——罰としての結婚、そして返事をしない花嫁

尺には尺を

作品メモ ウィーン公爵は町の風紀の乱れを正すため、厳格な代理人アンジェロに統治を任せて姿を消す(実際には修道士に変装して町に残る)。アンジェロは婚前交渉の罪で青年クローディオに死刑を宣告。兄の助命を乞いに来た修道女見習いイザベラに、アンジェロは「体を差し出せば兄を助ける」と迫る。

『尺には尺を』は喜劇に分類されているが、笑えない喜劇——いわゆる「問題劇」の代表格だ。そして結末で、結婚が二つの奇妙な使われ方をする。

ひとつめは、罰としての結婚だ。終幕、悪事が暴かれたアンジェロは、かつて婚約を破棄した女性マリアナとの結婚を命じられる。公爵をさんざん中傷した放蕩者ルーシオも、関係を持った女性との結婚を命じられ、「結婚は絞首刑よりひどい」と泣き言を言う。喜劇のご褒美だったはずの結婚が、ここでは刑罰として配られている。同じ「結婚で終わる」でも、意味が完全に反転しているのだ。

ふたつめが、有名なイザベラの沈黙だ。すべてが解決したあと、公爵は突然、修道女見習いのイザベラに求婚する。

Dear Isabel, / I have a motion much imports your good; / Whereto if you'll a willing ear incline, / What's mine is yours and what is yours is mine.

イザベラよ、あなたのためになる申し出がある。快く耳を傾けてくれるなら、私のものはあなたのもの、あなたのものは私のものだ。(拙訳)

『尺には尺を』第5幕第1場

これに対するイザベラの返事は——ない。台本には、彼女の台詞が一行も書かれていないまま劇が終わる。神に仕えようとしていた女性が、権力者に求婚されて、無言。

この沈黙は、上演史上もっとも解釈が割れる空白のひとつだ。喜んで手を取る演出もあれば、凍りつく演出も、はっきり拒絶して一人で退場する演出もある。20世紀後半以降は、沈黙を「同意ではない」と読む上演が目立って増えた。求婚に返事が書かれていない結末を「めでたしめでたし」と呼べるのか——シェイクスピアがこの空白を意図的に残したのかどうかは分からない。ただ、埋めなかったことで、結婚というハッピーエンドの装置に永遠に問いが刺さったままになっている。

『お気に召すまま』——結婚を一番疑っているのは、一番恋しているヒロイン

お気に召すまま

作品メモ 公爵の娘ロザリンドは宮廷を追われ、男装して「ガニメデ」と名乗りアーデンの森へ。森で再会した想い人オーランドーに正体を明かさぬまま、「僕をロザリンドだと思って口説く練習をしろ」と持ちかける。恋の治療と称した、奇妙なレッスンが始まる。

結婚への疑いは、悲劇的な場面にだけあるわけではない。シェイクスピア喜劇でもっとも幸福な作品のひとつ『お気に召すまま』の中心には、結婚についての一番冷めた台詞がある。言うのは、誰よりも深く恋しているロザリンド本人だ。男装した彼女は、「恋の治療」と称してオーランドーにこう説教する。

Men are April when they woo, December when they wed: maids are May when they are maids, but the sky changes when they are wives.

男は口説くときは四月、結婚すれば十二月。娘は娘でいるうちは五月だが、妻になれば空模様は変わる。(拙訳)

『お気に召すまま』第4幕第1場

求愛の季節は花の盛りで、結婚した途端に冬になる。ついでに彼女は「女は結婚するまでしおらしく、結婚したら嫉妬深くなる」だの「あなたが浮気すれば私は倍返しする」だの、新婚生活の暗い予言を延々と並べてみせる。オーランドーが夢見る永遠の愛を、これでもかと現実の重力で引きずり下ろすのだ。

面白いのは、これだけ結婚を茶化しておいて、ロザリンドは最後、誰よりも積極的に結婚へ向かうことだ。しかも自分の手で段取りを整え、四組の結婚を一気に成立させて劇を終わらせる。結婚の欠点を全部言語化した上で、それでも選ぶ。僕はこれが、シェイクスピア喜劇の中でいちばん大人な結婚観だと思っている。幻想を抱いたままの結婚と、幻想を壊してからの結婚。ロザリンドのは後者で、だからこの劇の「めでたしめでたし」には珍しく地に足がついている。

『冬物語』——喜劇が終わったあとの結婚を、シェイクスピアは書いた

冬物語

作品メモ シチリア王リオンティーズは、妻ハーマイオニと親友の仲を突然疑い、嫉妬に狂って妻を裁判にかける。妻は死んだと告げられ、生まれたばかりの娘は捨てられ、幼い息子は心労で亡くなる。16年後——捨てられた娘の帰還とともに、王は失ったものと再会する。

喜劇は結婚で終わる。つまり喜劇は、結婚の「その後」を描かない。でも晩年のシェイクスピアは、その先を書いた。『冬物語』が描くのは、結婚してから何年も経った夫婦が、夫の側の一方的な疑心で崩壊する物語だ。オセローと違って、そそのかす悪役すらいない。嫉妬は夫の内側から、ほとんど自然発生する。結婚という制度がはらむ怖さ——相手を所有物として疑い始めたら止まらない——が、むき出しで出てくる。

だがこの劇が特別なのは、崩壊のあとに回復を描くからだ。16年の歳月のあと、王は死んだはずの妻の「彫像」と対面する。そして彫像が、動く。

O, she's warm! / If this be magic, let it be an art / Lawful as eating.

ああ、温かい! これが魔法だというなら、魔法は食事と同じくらい正当な業であってくれ。(拙訳)

『冬物語』第5幕第3場

16年間、妻は生きて隠れていた。夫が握ったその手の温かさは、若い恋人たちの熱ではなく、失われた歳月ごと相手を受け取り直す温度だ。この再会は文句なしに感動的で、僕もここは何度読んでもぐっとくる。

ただし、シェイクスピアはここでも無傷の「めでたし」を許していない。幼くして死んだ息子マミリアスは戻らない。16年は戻らない。ハーマイオニは夫には一言も語りかけず、再会した娘にだけ言葉をかける。回復はする、でも元通りにはならない。壊れた結婚の修復とはそういうものだ、という手触りまで含めて書いてあるのが、この結末のすごいところだと思う。

並べてみて見えること——結婚は「終わり」ではなく「問い」である

4つの結婚を並べ直してみる。演じられているかもしれない従順(カタリーナ)。罰として配られる結婚と、返事のない求婚(『尺には尺を』)。欠点を全部知った上で選ぶ結婚(ロザリンド)。そして壊れて、完全には戻らない結婚(『冬物語』)。

こうして見ると、「シェイクスピアの喜劇は結婚で終わる」という法則の意味が、少し違って見えてくる。結婚で終わるのは、結婚がゴールだからではなく、そこから先は別の物語が始まってしまうからなんじゃないか。求愛の物語は結婚で完結するが、結婚の物語は結婚から始まる。喜劇はその手前で幕を下ろすことで、いちばん難しい部分を観客の想像に預けている。

だから「結婚は悲劇なのか」という問いに、シェイクスピアからの一つの答えはたぶんこうだ。結婚は悲劇でも喜劇でもなく、どちらにでもなりうる続編である。四月を十二月にしないために何が要るのかまでは、彼は書いてくれなかった。ただ、幕が下りた瞬間に「この二人、大丈夫かな」と観客に思わせたら、その芝居は結婚を描くことに成功している——シェイクスピアの喜劇の結末は、だいたいいつも、その「大丈夫かな」を残すように書かれている気がする。

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