金は人間関係の試薬である
——借金・担保・浪費の劇作術
ヴェニスの商人 / アテネのタイモン / ハムレット
シェイクスピアは恋と王冠の作家だと思われている。実際、このサイトで扱ってきたのも、王位と眠りの交換レートだったり、父と娘の相続だったり、だいたいそういう話だ。ところが台本を開いてみると、驚くほど金の話が出てくる。借用証書、担保、利息、遺贈、持参金、宴会の請求書。しかも金は、たいてい人間関係のいちばん熱いところに注がれる。
今回は、その「金銭が人間関係に注がれた瞬間」だけを抜き出して並べてみたい。先に僕の見立てを言っておくと、シェイクスピア劇の金銭は、関係を壊す原因ではなく、そこに元から何が溶けていたかを色で示す試薬として使われていると思う。
ヴェニスの商人——友情の値段が、数字になってしまう
この劇は、友情の宣言から始まる。バッサーニオが金の相談を切り出すより先に、アントニオのほうが財布を開いてみせる。
My purse, my person, my extremest means / Lie all unlock'd to your occasions.
僕の財布も、僕自身も、僕に出せるかぎりのものも、すべて鍵をかけずに君の用のために開いてある。(拙訳)
『ヴェニスの商人』第1幕第1場
財布と身体を並べて差し出す言い方が、この後の展開を思うと不吉すぎる。ここでのアントニオにとって、金は友情の言語だ。額も期限も条件もない。「鍵をかけていない」というのは、要するに計量しないという宣言である。
ところが、そのバッサーニオの用というのが、遺産のある女性のもとへ求婚に行くための旅費と体裁づくりなのだ。愛を手に入れるための資金を、友情から調達する。しかも必要額は三千ダカットという具体的な数字で口にされる。友情の言語だったはずのものが、この瞬間に会計の言語へ移り変わる。
そして額が決まれば、次は担保だ。
let the forfeit / Be nominated for an equal pound / Of your fair flesh, to be cut off and taken / In what part of your body pleaseth me.
その違約の代償として、あなたの白い肉をきっかり一ポンド指定させてもらおう。私の好きな箇所から切り取って、いただくということで。(拙訳)
『ヴェニスの商人』第1幕第3場
ここが恐ろしいのは、残酷さそのものより、形式が正しいことだと思う。担保を設定し、違約時の取り分を明記し、双方が合意して署名する。手続きとしては何も間違っていない。第1幕第1場で「鍵をかけずに開いてある」と言われた身体が、二場あとには「一ポンド」という単位で条文に書き込まれている。友情を証明しようとして契約書に署名した瞬間、感情は法律の言葉に翻訳されてしまった。後半の裁判で、その条文の文言が一字一句そのまま持ち出されることになるのは、いかにもこの劇らしい。
ちなみに、利息をとって金を貸すことの是非は、当時のイングランドでも道徳と実務が衝突する論点だったと語られている。この劇にもその対立が影を落としているが、シャイロックという人物の描かれ方については上演史の問題も絡むので、ここでは踏み込まない(THEME 07でも別の角度から触れている)。今回見ておきたいのは、友情の側の作法のほうだ。無条件で差し出された金が、条件つきの契約に化けていく速さ——それがこの劇の設計だと思う。友情がどこまで「勘定しないこと」でいられるかという問題は、THEME 14とも地続きだ。
アテネのタイモン——気前よさという名の浪費
『ヴェニスの商人』が「一人に注ぎすぎた」話なら、こちらは「全員に注ぎすぎた」話だ。前半のタイモンは、とにかく配る。宴会、宝石、馬、他人の借金の肩代わり。しかも彼には理屈がある。
'Tis not enough to help the feeble up, / But to support him after.
弱った者を助け起こすだけでは足りない。そのあとも支えてやらなければ。(拙訳)
『アテネのタイモン』第1幕第1場
言葉としては、まったく立派だと思う。ただ、この立派さには裏があって、彼は与え続けることでしか自分と他人の関係を作れない。返礼を受け取ろうとせず、感謝もその場で配り直してしまう。金を渡すという行為が、愛される保証を買う行為とほとんど区別されていないのだ。
そして破産が来る。第3幕の前半は、タイモンの使者が「友人」を一軒ずつ訪ねて断られていくだけで進む。ある者は「担保のない友情では貸せない」と断ったうえ、使者に口止め料を握らせる。ある者は「今ちょうど手元に現金がない」と惜しがってみせ、ある者は「なぜ自分が最後に回されたのか」と逆ギレする。断り文句のバリエーションの豊かさが、いっそ喜劇的ですらある。ここでシェイクスピアが金を使ってあぶり出しているのは、相手の吝嗇ではなく、そもそもそこに友情がなかったという事実のほうだと思う。試薬を垂らしたら、無色だったということだ。
人間不信になったタイモンは町を捨て、森で穴を掘る。そして皮肉なことに、そこで黄金を掘り当ててしまう。手に入れたばかりの金塊に向かって、彼はこう吐き捨てる。
Thus much of this will make black white, foul fair, / Wrong right, base noble, old young, coward valiant.
これだけあれば、黒は白に、醜は美に、不正は正義に、卑賤は高貴に、老いは若さに、臆病は勇敢に変わる。(拙訳)
『アテネのタイモン』第4幕第3場
金は価値の尺度ではなく、価値をすり替える装置だ、という告発である。この一節は、後の時代に貨幣の本質を論じた書物にも引かれた有名な箇所として語られている。もっとも、劇の中でこれを叫んでいるのは、破産して人間を憎みきった男だ。シェイクスピアがこの見方に賛成しているかどうかは、台本からは読み取れない。彼はいつもどおり、極端まで振り切れた人物に極端なことを言わせて、判断は客席に投げている。
ポローニアスの餞——説教くさい人が、いちばん実用的
ここまでの二作は、金の注ぎ方を間違えた人たちの話だった。では、正解を言った人はいるのか。いる。しかも意外な人物が言う。
Neither a borrower nor a lender be, / For loan oft loses both itself and friend, / And borrowing dulls the edge of husbandry.
借り手にも貸し手にもなるな。貸せば、金と友の両方を失うことが多いし、借りれば、やりくりの切れ味が鈍る。(拙訳)
『ハムレット』第1幕第3場
フランスへ発つ息子への餞の言葉である。話しているのはポローニアス——お喋りで、自分の言葉に酔いがちで、劇中でしばしば笑いの対象になる老人だ。彼の助言はたいてい的外れで、そのせいで人が死にもする。ところがこの一節だけは、四百年生き延びて金言として引かれ続けている。
「貸せば、金と友の両方を失う」。これはアントニオが第1幕でやったことの、そのまま予告になっている。順序を逆にして読めば、貸すという行為には金と友情という二つの賭け金があって、しかも同時に失われる、という構造の指摘だ。説教くさい人物の口から、劇中でいちばん実用的な忠告が出てくる——この配置の意地の悪さが、僕はけっこう好きだ。真実を口にできるのが賢者ではなく、少し滑稽な人だというのは、THEME 05で見た道化の免許とも通じるところがある。
並べてみて見えること——金は試薬である
三つ並べると、注ぎ方の違いがはっきりする。アントニオは友情の証明として金を出した。バッサーニオは愛の調達費として金を借りた。タイモンは愛される保証として金を配った。三人とも、金銭を感情の代用品として使っている。そして三人とも、その代用が効かなくなった瞬間に足元が抜ける。
この構造は、実はこのサイトで何度も出てきたものだ。リア王は娘たちに愛を言葉で計量させ、その出来高で領土を配分しようとした(THEME 07)。愛という測れないものを、測れる単位に換算した瞬間に、いちばん本物の愛が最低点をつけられる。アントニオの肉一ポンドも、タイモンの宴会も、やっていることは同じだと思う。測れないものに単位をつけると、関係のほうが単位に合わせて変形してしまう。
ただ、劇を読み終えて残るのは「金は関係を壊す」という教訓ではない。断られた借金は、そもそもなかった友情を可視化しただけだ。切り取られそうになった肉一ポンドは、アントニオの献身が本物だったこともまた証明してしまう。金は関係を壊すのではなく、関係に元から溶けていた成分を色で示す。だから試薬なのだと思う。怖いのは試薬のほうではなく、垂らすまで自分でも中身がわからない、という点のほうだ。