COLUMN 06

シェイクスピアの薬箱
——惚れ薬、仮死薬、そして毒

夏の夜の夢 / ロミオとジュリエット / ハムレット

シェイクスピアを続けて読んでいると、この人の劇はやたらと薬と毒が出てくるな、と思うようになる。恋に落ちる薬、死んだように見せる薬、耳から注がれる毒、狂った娘が配って歩く薬草。剣で刺すか、瓶を傾けるか。物語が大きく曲がる場面の、かなりの割合に小瓶が絡んでいる。

今回はその小瓶を、一本ずつ薬箱から取り出して並べてみる回だ。惚れ薬、仮死薬、毒、そして花束。並べてみると、この薬箱には一貫した思想のようなものが入っていることに気づく。

惚れ薬——瞼に塗ると、目覚めて最初に見たものに恋する

作品メモ 『夏の夜の夢』——アテネ近郊の森を舞台にした喜劇。親の決めた結婚から逃げる恋人たちと、素人芝居の稽古に来た職人たちが、妖精の王オーベロンと女王タイターニアの夫婦喧嘩に巻き込まれる。一夜の混乱ののち、四人の恋人はそれぞれ正しい相手に落ち着いて幕となる。

まずは、いちばん愉快な一本から。オーベロンが家来のパックに取ってこさせる、この花の汁だ。

Yet mark'd I where the bolt of Cupid fell: / It fell upon a little western flower, / Before milk-white, now purple with love's wound, / And maidens call it love-in-idleness. ... The juice of it on sleeping eyelids laid / Will make or man or woman madly dote / Upon the next live creature that it sees.

だが私は、キューピッドの矢がどこへ落ちたかを見ていた。それは西の国の小さな花の上に落ちた。前は乳のように白かったのに、今は恋の傷で紫に染まっている。娘たちはその花を「恋の三色すみれ」と呼ぶ。(中略)その汁を、眠っている瞼に垂らしてやれば、男だろうと女だろうと、目を覚まして最初に見た生き物に、狂おしく恋をする。(拙訳)

『夏の夜の夢』第2幕第1場

効能書きが完璧すぎて笑ってしまう。用法は外用、塗る場所は瞼、効果の発動条件は「覚醒後、最初に見た生き物」。そして重要なのは、この薬に宛先を指定する機能がないことだ。誰に恋をさせるかは、目を開けたタイミングに丸投げされている。

案の定、事故が起きる。パックは相手を取り違えて、まったく別の男の瞼に汁を塗ってしまう。訂正のために今度はオーベロン自身がもう一人にも塗った結果、二人の男が同じ女に同時に言い寄る事態になり、四人の関係は一晩でぐちゃぐちゃになる。妖精の女王にいたっては、ロバの頭を生やした職人に本気で恋をする。喜劇の燃料としては最上級だ。

ちなみに、この薬にはちゃんと解毒剤もあって、オーベロンは「ダイアナの蕾」と呼ぶ別の草で女王の目を覚まさせる(第4幕第1場)。ただ、僕が引っかかるのはそこではない。四人の恋人のうち一人——ヘレナに言い寄る側になったデミートリアスだけは、薬を解かれないまま幕が下りるのだ。彼の最後の愛は、薬の効果が続いている状態の愛ということになる。めでたしめでたしの中に、解毒し忘れた小瓶が一本残っている。それを事故と読むか、わざとと読むかで、この喜劇の後味はずいぶん変わると思う。

仮死薬——「毒と薬効が同居している」という宣言

作品メモ 『ロミオとジュリエット』——反目する二つの家の若い男女が恋に落ち、修道士ロレンスの手で秘かに結婚する。だが決闘騒ぎでロミオは追放され、ジュリエットには別の男との結婚が迫る。ロレンスは仮死状態になる薬を渡して二人を助けようとするが、その計画が伝わらなかったことで悲劇になる。

薬箱の二本目は、修道士ロレンスの調合だ。彼は薬草に詳しい人物として登場し、初登場の場面で籠を提げて摘み草をしながら、いきなり長い薬草講釈を始める。

Within the infant rind of this small flower / Poison hath residence and medicine power: / For this, being smelt, with that part cheers each part; / Being tasted, slays all senses with the heart. / Two such opposed kings encamp them still / In man as well as herbs, grace and rude will.

この小さな花の、幼い皮の内側に、毒が住みつき、薬の力も宿っている。嗅げば、その香りが体じゅうを元気にし、口に入れれば、心臓もろとも五感を殺す。相争う二人の王が、草にも人間にも同じように陣を張っているのだ——恵みと、荒々しい意志と。(拙訳)

『ロミオとジュリエット』第2幕第3場

薬草の話をしているように見えて、後半でいきなり人間の話に接続してくる。同じ一つのものの中に、毒と薬が同居している。分けるのは使い方だけだ——これは薬の説明であると同時に、この劇そのものの要約になっていると思う。愛は二つの家を和解させる薬にもなれば、四人以上を殺す毒にもなる。COLUMN 01で見たとおり、この劇はたった5日間の話だが、その5日で愛は薬から毒へ反転する。

そしてこの講釈をした本人が、第4幕第1場でジュリエットに小瓶を渡す。飲めば脈が止まり、体温が下がり、死んだとしか見えない状態が42時間続く薬だ。時間まで明示されているのが、いかにも処方箋らしい。「死んで、生きなさい」という劇作術についてはTHEME 09で書いたが、この仮死薬はその代表格でありながら、あそこで並べたなかでは唯一失敗する例でもある。薬は正しく効いた。効かなかったのは、手紙のほうだった。

毒——売る側の人間まで書いてしまう筆

三本目は毒。ロミオがジュリエットの死を聞いて駆け込むのは、追放先マンチュアの、みすぼらしい薬屋だ。棚に並ぶのは、吊るされた亀に剥製のワニ、あとは空箱と素焼きの壺と古びた種ばかりだ。毒を売るのは死罪だと薬屋は言う。それでもロミオが金貨を積むと、この男はこう答える。

My poverty, but not my will, consents. / I pay thy poverty, and not thy will.

承知するのは私の貧乏であって、私の意志ではありません。/私が金を払う相手は、お前の貧乏だ。お前の意志にではない。(拙訳)

『ロミオとジュリエット』第5幕第1場

前半が薬屋、後半がロミオの返しだ。この場面が僕は好きで、というのも、劇の筋の上ではこの薬屋はただの自動販売機でよかったからだ。ロミオが毒を手に入れさえすれば話は進む。それなのにシェイクスピアは、売る側の男に一行だけ、自分の言い分を言わせている。しかもロミオはその言い分を否定せず、そのまま受けて返す。直後にロミオは、金貨のほうがよほど人の魂に効く毒だ、という意味のことを言って店を出る。わずか数行の脇役に、貧困と法と良心を全部詰め込んでしまう筆の速さには、毎回おどろく。

毒といえば『ハムレット』も外せない。この劇はそもそも、毒殺の告発から始まる。

Sleeping within my orchard, / My custom always of the afternoon, / Upon my secure hour thy uncle stole, / With juice of cursed hebenon in a vial, / And in the porches of my ears did pour / The leperous distilment.

私が油断して眠っている時刻に、お前の叔父が忍び寄った。呪わしいヘベノンの汁を小瓶に入れて、私の耳の入口に、あの病みただれた雫を注ぎ込んだのだ。(拙訳)

『ハムレット』第1幕第5場

耳から注ぐ毒、という発想がまず異様だ。そして「ヘベノン」が何の植物なのかは、実のところよく分かっていない。ヒヨスだという説、イチイだという説、黒檀を指すという説などがあり、決着はついていないようだ。作者が実在の毒草を念頭に置いていたのか、それとも響きだけで作った架空の名前なのかも分からない。分からないまま、この名前だけが400年残っている。

そして最終場は、ほとんど毒の見本市になる。毒を塗った剣、毒を入れた杯、その剣が持ち主に返ってくる、と数分のうちに毒だけで王家がほぼ全滅する。COLUMN 05で死者数を数えたときにも書いたが、『ハムレット』一作で毒殺のカウントが跳ね上がるほどだ。薬箱の中身が全部ぶちまけられて幕、と言ってもいい。

オフィーリアの花束——狂気の場面は、植物学の講義でもある

薬箱の最後の一段は、瓶ではなく花だ。父を殺されて正気を失ったオフィーリアが、宮廷に現れて、居合わせた人々に草花を配って回る場面(第4幕第5場)。ここでの彼女は、一本ずつ意味を添えて手渡していく。

There's rosemary, that's for remembrance; pray you, love, remember: and there is pansies, that's for thoughts.

これはローズマリー、思い出のしるしです。お願い、忘れないで。それからこれはパンジー、物思いのしるし。(拙訳)

『ハムレット』第4幕第5場

ローズマリーは記憶、パンジーは物思い。このあとも彼女は、ういきょうと苧環(おだまき)、そしてヘンルーダを配る。ヘンルーダは「日曜には恵みの草とも呼べる」と言い添えられ、悔い改めの草として渡される。すみれは全部しおれてしまった、とも言う。当時の花言葉のカタログをそのまま朗読しているような場面で、狂気の描写でありながら、同時に植物学の講義でもあるわけだ。

面白いのは、誰に何を渡したかが台詞に明示されないことだ。記憶を求める草を、悔い改めの草を、彼女は誰に渡したのか。上演のたびに演出家が決めることになっていて、ここをどう配るかがオフィーリア役の見せ場のひとつになっていると言われている。THEME 01で書いたとおり、シェイクスピア劇では狂った人だけが本当のことを言える。この場面では、その本当のことが言葉ではなく花で手渡されている。正気の宮廷で誰も口にできない告発が、薬草の名前に化けて配られていく。

ついでに気づいたことをひとつ。オフィーリアが配るパンジーは、オーベロンが探させた「恋の三色すみれ」と同じ花だとされている。パンジーという名は、思いを意味するフランス語に由来すると言われていて、だから「物思いのしるし」なのだ。喜劇では恋の道具になった一輪が、悲劇では狂気の贈り物になる。同じ花なのに。

毒と薬を分けるのは、用量と使い手

最後に、当時の観客のことを少し。16世紀末のロンドンでは、薬草の知識はいまよりずっと生活に近いところにあったと語られている。医学は古代以来の体液説——血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁の四つの体液の釣り合いで健康が決まるという考え方——が主流で、体液のかたよりを草や食べ物で整える発想が広く共有されていた。英語で書かれた分厚い薬草書が出版されて読まれたのもこの時期だ。台所と薬棚が地続きだった、と言ってもいいのだと思う。

だとすると、ロレンスの薬草講釈も、オフィーリアの花束も、当時の客席には注釈なしで通じたことになる。今の僕たちが脚注を頼りに読む場面を、彼らは自分の家の棚を思い浮かべながら聞いていた。専門知識の披露ではなく、共通言語だったわけだ。

そうやって薬箱を閉じてみると、結局ロレンスの一行に戻ってくる。同じ花の皮の内側に、毒と薬が同居している。惚れ薬は塗る相手を間違えれば喜劇になり、仮死薬は手紙が届かなければ悲劇になり、毒でさえ、売った男には生活費だった。分けているのは物質そのものではなく、用量と、使い手と、タイミングだけだ。「用法・用量を守って正しくお使いください」——400年前の薬箱に貼ってあった注意書きは、現代の薬局の袋にそのまま貼れてしまうと思う。

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