なぜ復讐しても気が晴れないのか
——シェイクスピアの復讐者は、全員うまくいっていない
ハムレット / タイタス・アンドロニカス / テンペスト
言い返せなかった一言を、何日も引きずることがある。あのときこう返せばよかった、と夜中に思い出しては、頭の中で完璧な反撃を組み立て直す。そして運よく、あるいは執念で、実際にやり返せることもある。ところが、そのあとが妙なのだ。すっきりするはずの場面で、思ったほどすっきりしない。何日か経つと、やり返す前より少し後味が悪くなっていることさえある。
もちろん、これは僕の話であって、人によっては本当にきれいに晴れるのかもしれない。ただ、この「晴れなさ」については、400年前にかなり徹底的に調べた人がいる。しかも彼は、復讐が売れ筋の商品だった時代のまっただ中で、それを調べている。
当時、復讐劇は流行ジャンルだった
シェイクスピアがロンドンで書き始めたころ、舞台で当たっていた型のひとつが「復讐悲劇」だったと語られている。よく引き合いに出されるのがトマス・キッドの『スペインの悲劇』で、身内を殺された者が恨みを晴らすまでを追う筋立ては、当時の観客にとってすっかりお馴染みのものだったらしい。亡霊が出てきて復讐の行方を見届け、主人公は正気を失い、芝居の仕掛けが血の決着そのものになる。部品を並べてみると、『ハムレット』と重なるものがずいぶん多い。
つまりシェイクスピアは、流行のジャンルに普通に乗っている。ここまでは商売の話だ。ところが彼の書いた復讐者を全員並べてみると、奇妙なことに気づく。復讐に成功して、満足して、それで終わる主人公が一人もいないのだ。これは偶然の結果ではないと思う。
もちろん、例外に見える人はいる。『マクベス』のマクダフは妻子を殺された報いを果たして生き延びるし、これから見る『タイタス』でも、息子ルーシアスは復讐の側に立ったまま新しい皇帝になる。ただしどちらも、復讐している最中の内側がほとんど書かれていない。ここで言いたいのはもう少し狭いことで、シェイクスピアが復讐者の内側に付き合って書いたとき、その人物が満足して終わったためしがない、ということだ。
ハムレット——最大の復讐劇は、ほとんど「先送り」でできている
復讐劇として見ると、この劇の構造はかなり異様だ。復讐を命じられるのが第1幕の終わり、叔父を実際に殺すのは第5幕の終わり。あいだの三幕半、彼はほとんど復讐していない。そしてシェイクスピアは、その時間の使い方を隠さない。ハムレット本人に、なぜ今やらないのかを何度も説明させる。いちばん有名なのが、祈っている叔父の背後まで行きながら、剣を収める場面だ。
Now might I do it pat, now he is praying; / And now I'll do't. And so he goes to heaven; / And so am I revenged. That would be scann'd: / A villain kills my father; and for that, / I, his sole son, do this same villain send / To heaven. / O, this is hire and salary, not revenge.
今ならすぐにやれる。ちょうど祈っているところだ。今やってしまおう。——だがそうすると、この男は天国へ行く。それで俺は復讐したことになる。いや、そこは吟味が要る。悪党が父を殺した。その報いに、その一人息子である俺が、当の悪党を天国へ送り届ける。これでは報酬だ、給料だ、復讐ではない。(拙訳)
『ハムレット』第3幕第3場
祈っている最中に殺せば、相手は魂を清めた状態で死ぬことになる。それでは罰ではなく褒美を与えることになってしまう——彼はそう考えて剣を収める。理屈としては筋が通っている。ただ、この理屈は同時に、いくらでも延長できる理屈でもある。もっと悪い瞬間を待とう、と決めた時点で、復讐は無期限の宿題になる。
先送りの理由はほかにもあって、そのひとつが亡霊の正体への疑いだ。あれは本当に父なのか、それとも自分を破滅させにきた悪魔なのか。この疑いがどれだけ切実なものだったかはTHEME 06で書いたとおりで、当時の観客にとって笑い事ではなかった。証拠を確かめないまま人を殺せば、正義の執行のつもりが、ただの殺人になる。
そして彼が本当に叔父を刺すのは、第5幕の決闘の最中、自分がすでに毒を受けていて残り時間がないと知らされた直後である。復讐の計画としては、これは失敗だと思う。時も場所も自分で選んでいないし、自分の命と引き換えになっているし、そもそも相手の罠の中で起きている。三幕半かけて準備した人が、最後は成り行きで刺している。
レアティーズ——迷わない復讐者は、他人の駒になる
この劇には、ハムレットの正確な裏返しが用意されている。同じく父を殺されたレアティーズだ。彼は迷わない。国外から駆け戻り、群衆を引き連れて王宮に押し入り、その場で宣言する。
To hell, allegiance! vows, to the blackest devil! / Conscience and grace, to the profoundest pit! / I dare damnation: to this point I stand, / That both the worlds I give to negligence, / Let come what comes; only I'll be revenged / Most thoroughly for my father.
忠誠など地獄へ落ちろ。誓いは真っ黒な悪魔にくれてやる。良心も神の恵みも、いちばん深い穴の底へ。地獄堕ちで結構、俺はここに立つ。この世もあの世も、どうなろうと知ったことか。何が来ようと来い。ただ父のために、とことん復讐してやる。(拙訳)
『ハムレット』第4幕第5場
ハムレットに欠けていたものを、この人は全部持っている。速さ、迷いのなさ、覚悟。もしこの劇が「決断できない王子」の物語なら、レアティーズは正解の見本ということになるはずだ。ところがシェイクスピアは、そう書かない。この覚悟を目の前で聞いていたクローディアスは、たちまち彼の使い道を思いつく。剣の先を潰さずに立ち合わせ、事故に見せかけてハムレットを始末させる、という段取りだ。しかもレアティーズはそこに、自分から毒を足す。買っておいた薬を刃に塗ると言い出すのは彼のほうで、王はそれを止めずに、さらに毒入りの杯を保険として用意する。段取りは王のもの、毒は本人のもの。動力を提供したのは、最後まで本人だった。
結果はご存じのとおりで、剣は取り替えられ、彼自身がその毒で死ぬ。倒れながら、彼はこう言う。
Why, as a woodcock to mine own springe, Osric; / I am justly kill'd with mine own treachery.
なに、自分の仕掛けた罠にかかった山鴫だ、オズリック。自分の裏切りで殺される、当然の報いというやつだ。(拙訳)
『ハムレット』第5幕第2場
僕の読み方では、この二人の配置がこの劇の議論の中心だと思う。迷う復讐者は宿題を溜め込み、迷わない復讐者は他人に握られる。復讐は本人の中では純粋な感情だが、外から見ればただの動力だ。動力を剥き出しで持っている人間は、それを使いたい誰かにとっていちばん便利な部品になる。クローディアスがやったのは、まさにそれだった。
タイタス——完遂しても、終わり方は同じ
ここまで読むと、「では完遂すればいいのでは」と思えてくる。シェイクスピアはその実験もやっている。最初期の作『タイタス・アンドロニカス』である。
この劇のタイタスは、先送りしない。証拠も待たない。彼は復讐をきっちり完遂する。しかもその完遂のしかたが、ギリシャ神話の残酷譚を下敷きにした、あの有名な晩餐の場面だ。
Why, there they are both, baked in that pie; / Whereof their mother daintily hath fed, / Eating the flesh that she herself hath bred.
なに、二人ならそこにいる。そのパイに焼き込んである。母親はそれを上品に平らげた。自分が産んだ肉を食ったのだ。(拙訳)
『タイタス・アンドロニカス』第5幕第3場
これ以上ないほどの成功である。相手は苦しみ、屈辱を味わい、思い知る。復讐の目的が「相手に支払わせること」なら、満額回収と言っていい。ただしタイタスは、このパイを明かす十数行前に、辱められた娘ラヴィニアを自分の手で殺している。復讐の完遂には、それも含まれていた。そして明かした直後に皇后を刺し、その四行のうちに皇帝に刺し殺される。舞台は死体で埋まり、彼自身が取り戻したものは何ひとつない。
先送りしたハムレットも、迷わなかったレアティーズも、完遂したタイタスも、着地点が同じなのだ。速さでも、覚悟でも、成否でもない。どの方向から入っても出口が同じだとしたら、問題は復讐のやり方ではなく、復讐という行為そのものの側にあることになる。
途中でやめた人だけが、生きて劇を出ていく
ひとつだけ、例外に近い劇がある。『テンペスト』だ。弟に地位を奪われて孤島に流されたプロスペローは、12年後、魔法で仇敵たちを完全に手中に収める。あとは好きにできる、というところまで来て、彼は方針を変える。立派なおこないは復讐の中にではなく徳の中にある、と自分に言い聞かせるのだ(この転換の意味についてはLENS 02で別の角度から書いた)。
その決心のきっかけになる、短いやりとりがある。仇敵たちの様子を見てきた精霊エアリエルが、主人に報告する場面だ。
ARIEL: Your charm so strongly works 'em / That if you now beheld them, your affections / Would become tender. / PROSPERO: Dost thou think so, spirit? / ARIEL: Mine would, sir, were I human. / PROSPERO: And mine shall.
エアリエル「あなたの魔法があまりに強く効いているので、今あの人たちをご覧になれば、あなたの心もやわらぐことでしょう」/プロスペロー「そう思うか、精霊よ」/エアリエル「私ならそうなります、旦那様。もし私が人間であったなら」/プロスペロー「では、私もそうしよう」(拙訳)
『テンペスト』第5幕第1場
人間ではないものに「私が人間だったら心が動くでしょう」と言われて、人間のほうが我に返る。復讐をやめる理由として、これ以上に妙な、そして納得のいく理由を僕は知らない。そしてこの人は、シェイクスピアの復讐者の中でめずらしく、劇の最後まで生きている。
復讐は、失ったものを取り戻さない
並べ終えて残るのは、ずいぶん素っ気ない一点だと思う。復讐は、失ったものを取り戻さない。ハムレットが叔父を刺しても父は戻らないし、タイタスが皇后に何を食べさせても娘の受けた傷は消えない。しかも相手が死んでしまえば、その相手はもう何も感じない。こちらが与えたはずの苦痛を、いちばん長く覚えているのは、与えた側なのだ。
晴れるはずの気分が晴れないのは、たぶんそのせいなのだろうと思う。僕たちは復讐を「取り戻す」ための行為だと思ってやるけれど、実際にできるのは「支払わせる」ことだけだ。支払わせても、口座の残高は増えない。相手の残高が減るだけである。そしてその減り方は、こちらからは見えないことのほうが多い。
だからといって、腹を立てるなとか、水に流せとか、そういう話をしたいわけではない。シェイクスピアもそんな説教はしていない。彼がやったのは、復讐がヒットジャンルだった時代に、復讐劇の型をきちんと守りながら、結末だけを全部同じ場所に着地させることだった。客は最後まで血の決着を見たがっている。書き手はそれを見せる。見せたうえで、誰も得をしていないことを、静かに舞台に並べておく。
僕にできるのは、せいぜい、夜中に完璧な反撃を組み立てているとき、それが何を取り戻すための作業なのかを一度だけ自分に確かめることくらいだと思う。答えが「何も」だったとしても、たぶんその日はやめられない。それでも、確かめたことは残る。