なぜ謝罪会見は燃えるのか
——シェイクスピアが書いた「効かない謝罪」
ハムレット / テンペスト
謝罪会見の映像を見ていて、なぜか腹が立ってきたことはないだろうか。壇上の人たちは深く頭を下げているし、言葉づかいも丁寧だ。手順としてはどこも間違っていない。それなのに、見ているうちにざらざらしたものが溜まってきて、翌日にはむしろ火が大きくなっている——そういう光景を、僕たちは何度も見てきたように思う。
不思議なのは、燃える会見と燃えない会見の差が、話し方の上手下手ではなさそうなことだ。声を震わせても燃えるときは燃えるし、淡々としていても収まるときは収まる。ではいったい、何が足りていないのだろう。
この問いに、かなり正確な答えを出している人物がいる。しかもそれは評論家ではなく、劇の登場人物だ。『ハムレット』の王クローディアス。兄を毒殺して、王冠と兄の妻を手に入れた男である。彼は劇のちょうど中ほどで、一人きりになって神に祈る。本気で悔いている。それでも赦されない。そして彼は、赦されない理由を自分の口で言い当ててしまう。
まず確認——この祈りは演技ではない
第3幕第3場。ハムレットの仕掛けた芝居で自分の犯行が示唆され、動揺したクローディアスは席を立ち、一人になって膝をつく。ここで押さえておきたいのは、これが誰にも見せるつもりのない場面だということだ。聞いている人物は——少なくとも彼の意識の上では——いない。実際にはこの祈りの途中で、ハムレットが背後に忍び寄って剣を抜いている。だがクローディアスは気づかないまま喋り続けるし、ハムレットは「祈っている最中に殺せば、かえって天国へ行かせてしまう」と考えて剣を収め、立ち去ってしまう。皮肉なことに、この男は届いていない祈りに命を救われるのだ。当時の劇の約束事として、独白と、こういう一人きりの祈りは、原則として嘘をつかない。人物の本心を観客にだけ開いて見せるための装置だからだ(この構造についてはTHEME 04で詳しく書いた)。
つまりこの祈りは、世間向けのポーズではない。彼は本当に苦しんでいる。
O, my offence is rank it smells to heaven; / It hath the primal eldest curse upon't, / A brother's murder. Pray can I not, / Though inclination be as sharp as will: / My stronger guilt defeats my strong intent;
ああ、私の罪は腐りきって、天まで臭う。それには人類最初の呪いがかかっている。兄殺しだ。祈ることができない。祈りたい気持ちは意志と同じだけ鋭いのに。より強い罪が、強い決意を打ち負かしてしまう。(拙訳)
『ハムレット』第3幕第3場
祈りたいのに祈れない、と彼は言う。悔いていないのではなく、悔いても言葉が出てこない。この時点で、彼は多くの謝罪会見よりよほど深いところまで来ていると思う。何しろ誰も見ていないのだ。ごまかす相手すらいない場所で、彼は自分の罪を「天まで臭う」と呼んでいる。
本人による自己診断——「奪ったものを持ったまま」
それなのに、祈りは通らない。なぜなのか。驚くのは、その理由をクローディアス自身が、きわめて明晰に言語化してしまうところだ。
But, O, what form of prayer / Can serve my turn? 'Forgive me my foul murder'? / That cannot be; since I am still possess'd / Of those effects for which I did the murder, / My crown, mine own ambition, and my queen. / May one be pardon'd and retain the offence?
だが、ああ、どんな祈りの文句が私の役に立つというのか。「私の汚らわしい殺人をお赦しください」とでも。それは無理だ。私はいまだに手にしたままなのだから、そのために殺人を犯した当のものを——王冠を、私の野心を、そして王妃を。罪の果実を握ったまま、人は赦されうるものだろうか。(拙訳)
『ハムレット』第3幕第3場
「罪の果実を握ったまま、人は赦されうるものだろうか」。この一行が、この記事で言いたいことのほとんどを先に言ってしまっている。彼は謝罪の言葉を探すのをやめて、自分の手元を見る。王冠がある。王妃がいる。奪ったものを一つも手放していない状態で、口だけが赦しを求めている。その不一致に、彼自身が耐えられなくなる。
彼はさらに、この世とあの世の違いにまで話を進める。
In the corrupted currents of this world / Offence's gilded hand may shove by justice, / And oft 'tis seen the wicked prize itself / Buys out the law: but 'tis not so above;
この世の濁った流れの中でなら、黄金で飾られた罪の手が正義を押しのけることもある。悪事で得た戦利品そのものが法を買い取ってしまうのも、よく見かける話だ。だが、上ではそうはいかない。(拙訳)
『ハムレット』第3幕第3場
地上では、奪ったもので後始末を買える。だが上の法廷ではそれが効かない、と彼は言う。ここでの「上」を宗教の話としてだけ読むと、少し狭くなる気がする。僕の読み方では、これはごまかしの効く審級と、効かない審級があるという話だ。手続きは踏んだ、書類は整った、言葉も選んだ——そこまでで通過できる審級と、それでは絶対に通過できない審級がある。
そして彼は、祈りを終えて立ち上がりながら、この二行を残す。
My words fly up, my thoughts remain below: / Words without thoughts never to heaven go.
私の言葉は上へ飛んでいく。私の思いは下に残ったままだ。思いの伴わない言葉が、天に届くことは決してない。(拙訳)
『ハムレット』第3幕第3場
効かない謝罪の構造を、当の本人が二行で診断して退場する。ここが恐ろしいところだと思う。彼は無自覚な悪人ではない。何が足りないかを完全に理解していて、それでも足りないものを差し出せない人なのだ。
会見に戻る——足りないのは、たぶん言葉ではない
ここから現代側の話に戻したい。断定するつもりはないけれど、謝罪会見が燃えるのは、たいてい言い方の問題ではないのだろうと僕は思う。角度が浅いとか、視線が泳いだとか、そういう指摘は後から出てくるが、それは燃えた理由ではなく、燃えたあとで探された理由であることが多い気がする。
地位も、収益も、立場も、そっくり手元に置いたまま頭だけを下げているとき、聞く側はその不一致をかなり正確に感じ取るのだと思う。言葉は上へ飛ぶが、思いは下に残っている。逆に、辞任や返金や撤回のように「持っているものを実際に手放す」動作が伴うと、同じような言葉でも急に通りはじめる。差し出したものが見えた瞬間に、審級が変わるのだろう。
もちろん、手放せばいいという単純な話でもない。手放すべきものを間違えれば、それはただの責任逃れになる。THEME 08で見たように、シェイクスピアは「王冠を持っている状態」と「王として扱われる状態」を注意深く区別して書いた人だった。クローディアスが手放せなかったのは、王冠という物体であると同時に、王でいられるという立場そのものだ。
順番が逆の人——プロスペローは、先に手放す
クローディアスの対極に置ける人物がいる。『テンペスト』のプロスペローだ。彼は復讐が完成する寸前まで行って、そこで手を止める。
Though with their high wrongs I am struck to the quick, / Yet with my nobler reason 'gainst my fury / Do I take part: the rarer action is / In virtue than in vengeance: they being penitent, / The sole drift of my purpose doth extend / Not a frown further.
彼らのひどい仕打ちに、私は骨の髄まで打たれている。それでも私は、自分の怒りに対して、より高い理性の側につく。稀なおこないは、復讐の中にではなく、徳の中にある。彼らが悔いているのなら、私の目的はもう一歩も——眉をひそめる分すらも——先へは進まない。(拙訳)
『テンペスト』第5幕第1場
ここで大事なのは順番だと思う。彼は赦しの言葉を先に言って、そのあとで力を保持し続けたのではない。この直後に、彼は魔法の杖を折り、本を海に沈めると宣言する。THEME 11でも書いたことだが、プロスペローは全能のまま、力の絶頂で、自分から武器を捨てる。持っているものを先に置いてから、赦しの話をするのだ。
クローディアスとプロスペローの違いは、悔いの深さではないと思う。クローディアスの悔いは十分に深い。違うのは順番だけだ。片方は言葉が先で手元がそのまま、もう片方は手元が先で言葉が後。シェイクスピアは、この二人を別々の劇に置きながら、まったく同じ天秤で量っているように見える。
謝罪の本体は、言葉ではなく「何を差し出すか」
整理すると、こういうことになるのだと思う。謝罪の本体は言葉ではなく、その言葉と一緒に何を差し出すかだ。言葉はそれを指し示す標識にすぎない。標識だけが立っていて、その先に何もない——聞く側が怒っているのは、たぶんそのことに対してであって、頭の下げ方に対してではない。
クローディアスはそれを400年前に自分で言い当てている。「罪の果実を握ったまま、人は赦されうるものだろうか」。答えは彼自身が知っていた。それでも彼は、王冠を置けなかった。膝をついた姿勢から立ち上がり、王の顔に戻って、この先の場面へ歩いていく。この人が悲しいのは、鈍いからではなく、正解を知っていて実行できなかったからだと思う。
とはいえ、彼を笑うのは簡単ではない。手にしたものを本当に置ける人は、劇の中にも、たぶん劇の外にもそう多くない。だから僕は、次にどこかの会見を見てうまく言葉にできない苛立ちを覚えたら、まずこう考えてみることにしている——この人はいま、何を持ったまま喋っているのだろう、と。それで気が晴れるかどうかは、また別の話だけれど。