シャイロック
——悪役が主役を乗っ取るとき
台本の外で400年続いている、いちばん遅いキャラクターアーク
この CHARACTER シリーズでは、キャラクターアークを「性格が変わること」ではなく、性格と役割のあいだの張力が動くこととして追ってきた。ハル王子は役割に向かって自分を作り替え(CHARACTER 01)、マクベス夫人は役割に押し潰された(CHARACTER 02)。3人目のシャイロックは、毛色が違う。この人のアークは、劇の中で完結していない。台本の上では敵役のまま退場したのに、400年の上演史の中で、主役の座を乗っ取ってしまった人だからだ。
数えてみると、シャイロックが登場する場面は5つしかない。『ヴェニスの商人』は台本上、恋と友情の喜劇であり、シャイロックはその障害物——排除されて「めでたしめでたし」となるための装置だ。なのに、この芝居のタイトルを聞いて多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、商人アントーニオではなく、金貸しシャイロックのほうだと思う。なぜ装置が主役を食ったのか。台詞を頼りに考えてみたい。
台本上の役割——喜劇の「敵役」として書かれた人
まず、書かれた時代の前提を押さえておきたい。シェイクスピアの時代のイングランドには、13世紀末の追放令以来、公にはユダヤ人がほとんど住んでいなかった。当時の観客の大半は実際のユダヤ人に会ったことがなく、舞台の上の「ユダヤ人」は、現実の隣人ではなく、偏見と伝聞で組み上がった記号だったと考えられている。少し先行する時期に、ユダヤ人を派手な大悪党として描いた人気劇があったことも知られている。つまり初演の観客にとってシャイロックは、安心して笑い、憎むための敵役として受け取られた可能性が高い——と、ここまでは上演史でよく語られる話だ。
劇中のヴェネツィア人たちの振る舞いも、その前提を隠さない。彼らがシャイロックを名前ではなく「ユダヤ人」と呼ぶ場面は目立つし、紳士であるはずのアントーニオが彼に何をしてきたかは、シャイロック本人の口から語られる。
You call me misbeliever, cut-throat dog, / And spit upon my Jewish gaberdine, / And all for use of that which is mine own.
あなたは私を異教徒と呼び、人殺しの犬と呼び、私のユダヤの上着に唾を吐きかけた。私が自分の金を自分のやり方で使っている、ただそれだけのことで。(拙訳)
『ヴェニスの商人』第1幕第3場
重要なのは、これが被害者の告発として書かれているのかどうか、台本からは断定できないことだ。文脈の上では、これから異様な証文を持ちかける金貸しの、恨みがましい前置きでもある。しかもアントーニオは謝るどころか「これからも唾を吐くし、犬とも呼ぶ」と言い返す。敵役の恨み言として笑うことも、積年の屈辱の記録として聞くことも、台本はどちらも許してしまう。この両義性が、シャイロックという役の最初の仕掛けだと思う。
「ユダヤ人には目がないのか」——役割からあふれた台詞
そして第3幕第1場。娘に駆け落ちされ、街の子どもにまで嘲られているシャイロックが、アントーニオの友人たちに向かって、あの演説をする。
Hath not a Jew eyes? Hath not a Jew hands, organs, dimensions, senses, affections, passions? ... If you prick us, do we not bleed? If you tickle us, do we not laugh? If you poison us, do we not die? And if you wrong us, shall we not revenge?
ユダヤ人には目がないのか。ユダヤ人には手が、臓器が、体つきが、感覚が、愛情が、激情がないのか。……針で刺せば、私たちは血を流さないのか。くすぐれば、笑わないのか。毒を盛られれば、死なないのか。そして不当な目に遭わされたら——復讐しないとでもいうのか。(拙訳)
『ヴェニスの商人』第3幕第1場
敵役に、なぜこんな台詞を書いたのか。この演説は、人間の平等をうたった名文として単独で引用されることが多い。でも文脈ごと読むと様子が変わる。演説の結論は「だから私を人間として扱え」ではないのだ。
The villainy you teach me, I will execute, and it shall go hard but I will better the instruction.
あなたたちが教えてくれた悪事を、私は実行する。しかも教わった以上に、うまくやってみせる。(拙訳)
『ヴェニスの商人』第3幕第1場
つまりこれは、復讐の論理武装だ。人間宣言と復讐宣言が、同じひとつの演説の中で地続きになっている。敵役の役割を果たすだけなら後半だけで足りたはずなのに、シェイクスピアは前半——刺せば血が出る、という誰にも反論できない部分——をわざわざ書き足した。役割の必要量を超えた台詞。僕には、このあふれた部分こそが、のちの400年でシャイロックが膨らみ続けた種に見える。
悲しみは、あざけりの伝聞でしか届かない
この劇のもうひとつの仕掛けは、シャイロックの悲しみが観客に届く経路だ。娘ジェシカが家の金品を持って駆け落ちした夜、シャイロックがどう嘆いたのかを、観客は本人の場面では見せてもらえない。届くのは、笑いながら再現してみせるヴェネツィア人の伝聞だけ。「娘よ!金貨よ!」と取り乱して街を走った、と(この叫びと、亡き妻の指輪をめぐる読み直しは、THEME 07「父と娘」で詳しく扱った)。
悲しむ場面を直接は書かず、嘲笑のフィルター越しにだけ聞かせる。台本の設計としては、敵役を滑稽なまま保つための処理だと思う。でもこの処理は諸刃だ。観客がひとたび「フィルターの向こうに本物の悲しみがあるのでは」と疑い始めると、今度は笑っている側の残酷さのほうが目に入ってくる。トルコ石の指輪の一行——妻のリアからもらった指輪を、猿の荒野と引き換えでも手放さなかった、というあの述懐——を聞いたあとでは、なおさらだ。笑いの装置が、そのまま告発の装置に裏返る。
法廷——勝者のいない勝利
第4幕の法廷。シャイロックは、慈悲を説くポーシャ——男装の「若き法学者」だ。この変装の意味は THEME 03 で扱った——に対して、ひたすら「法のとおりに」と答え続ける。証文、法、正義。ヴェネツィアが彼を縛ってきた道具そのもので、ヴェネツィアを縛り返そうとする。だから逆転も、同じ道具でやって来る。証文に「血」の文字がない以上、肉は切れても血は一滴も流せない。さらに、外国人が市民の命を狙った罪で財産は没収。命は助けるが条件がある——キリスト教への改宗だ。
喜劇の文法で言えば、ここは悪役が裁かれる爽快な見せ場のはずだ。でもシャイロックの退場の台詞は、勝ち誇る側の文法に乗ってくれない。
I pray you, give me leave to go from hence; / I am not well. ... I am content.
どうか、ここから去るお許しを。気分がすぐれないのです。……承知しました。(拙訳)
『ヴェニスの商人』第4幕第1場
「承知しました」。財産と信仰と、おそらく生きる根拠のほとんどを取り上げられた人の、この劇での最後の言葉がこれだ。皮肉なのか、放心なのか、抵抗の放棄なのか——台本は何も指定していない。彼はこのあと二度と舞台に現れず、劇は何事もなかったかのように月夜のベルモントへ移って、指輪をめぐる恋愛喜劇を最後まで演じきる。第5幕に、シャイロックの影はほとんど差さない。劇は彼を忘れて終わる。でも観客は忘れられない。この非対称が、上演のたびに少しずつ膨らんでいったのだと思う。
改宗の強制についても、一言だけ。当時の観客の一部には、これが「魂の救済」という温情として受け取られた可能性が語られている。一方で現代の目には、信仰の剥奪という暴力に見える。ここは時代によって見え方が最も大きく変わる箇所で、僕はどちらの読みが「正解」かを固定しないでおきたい。ただ、400年のあいだに観客がこの場面の前で少しずつ笑えなくなっていった——その変化だけは、確かにあったのだと思う。
400年かけて進んだアーク
上演史をざっと眺めると、シャイロックは時代とともに演じ方が大きく変わってきた役として知られている。初期には滑稽味の強い悪役として、18世紀には恐ろしい悪役として、19世紀には名優たちが人間的な悲しみを前面に出し、迫害される家長として演じたと伝えられる。そして20世紀の歴史を経たあとでは、この役を単純な笑いの的として演じることは、ほとんど不可能になった。書かれた台詞は一行も変わっていないのに、役の重心だけが動き続けている。
だから、シャイロックのキャラクターアークは劇の内側にはない。第1幕の彼と第4幕の彼は、復讐への固執が深まりこそすれ、性格の根はそれほど変わらない。動いたのは観客の側だ。役割(喜劇の敵役)と、台詞が漏らしてしまう人間(受けた侮辱を記録し、亡き妻の指輪を覚えている人)。そのあいだの張力を、初演の観客は役割の側から見て笑い、後代の観客は人間の側から見て沈黙した。同じ台本の、同じ張力の、別の側を見ただけ——とも言える。
乗っ取りの正体——書き込まれた「余白」
整理する。シャイロックが主役を乗っ取れたのは、「本当は善人だったから」ではない。台本の彼は、復讐に燃え、人の命を法の名の下に狙う、間違いなく危険な人物だ。乗っ取りの原動力は、役割に対して台詞が過剰だったことにある。敵役を務めるだけなら要らなかったはずの、目と手と臓器の演説。伝聞の陰に一行だけ置かれた、妻の指輪。演技の指定がない「承知しました」。シェイクスピアがなぜそれを書いたのか——観客の笑いを揺さぶる確信犯だったのか、書いているうちに人物が勝手に膨らんだのか——は、分からない。
ただ、このシリーズの定義に照らすなら、こう言えると思う。キャラクターアークとは、性格と役割のあいだの張力が動くことだ。ハル王子はその張力を自分の手で動かし、マクベス夫人は張力に押し潰された。シャイロックの張力は、劇中では一度も解消されないまま幕が下り、解消の仕事はまるごと上演史に持ち越された。シェイクスピアの人物の中で、彼だけが、いまも幕の外でアークを続けている。次に『ヴェニスの商人』に触れるとき、あなたがシャイロックを笑えるか、笑えないか——その答え自体が、この400年のアークの現在地なのだと思う。