THEME 05

道化だけが、王に本当のことを言える
——「愚か者の免許」を読む

リア王/十二夜/お気に召すまま

シェイクスピア劇には、奇妙な特権を持つ職業がひとつ出てくる。道化だ。

王が娘たちにだまされて国を失いかけているとき、そのことをはっきり口に出せた家来は一人もいなかった。忠臣ケントは直言して追放された。末娘コーディリアは沈黙して勘当された。ところが道化だけは、王の目の前で、王の愚かさを歌にして笑い続ける。そして罰されない。

なぜ道化だけが許されるのか。この記事では、シェイクスピアの道化の代表格——『リア王』の道化、『十二夜』のフェステ、『お気に召すまま』のジェイクイズとタッチストーン——を並べて、「愚か者の免許」という不思議な制度と、その効力の範囲を考えてみたい。

前提——宮廷道化は実在の職業だった

まず前提から。宮廷道化(コート・フール)は、劇の中の空想ではなく、実在の職業だ。中世からルネサンス期のヨーロッパの宮廷や貴族の館には、主人を笑わせる専属の道化が雇われていた。エリザベス女王の宮廷にも道化がいたし、シェイクスピアの劇団自体に、道化役専門の看板役者がいた(初期はウィル・ケンプ、後期はロバート・アーミン。アーミンが加入してから、シェイクスピアの道化が急に知的で屈折した人物になるのは有名な話だ)。

そして道化には、暗黙の特権があった。道化の言うことは「戯言」なので、罪に問われない。真面目な家臣が言えば不敬罪になる批判も、鈴つき帽子をかぶった阿呆の冗談なら、主人は笑って受け流せる。これがいわゆる「愚か者の免許(フールズ・ライセンス)」だ。『お気に召すまま』では、皮肉屋の貴族ジェイクイズが、この免許そのものへの憧れを口にする。

Invest me in my motley; give me leave / To speak my mind, and I will through and through / Cleanse the foul body of the infected world.

私に道化の衣装を着せてくれ。思うままに語る自由をくれ。そうすれば、病んだこの世の汚れた体を、隅々まで洗い清めてみせよう。(拙訳)

『お気に召すまま』第2幕第7場

道化の衣装(モトリー)を着さえすれば、世界を批判し放題になる——真実を言うためには阿呆の格好が要る、という倒錯した仕組みを、これほど端的に言い当てた台詞もない。ここを出発点に、実際の道化たちを見ていこう。

リア王の道化——主人を刺し続ける、いちばん忠実な家来

リア王

作品メモ THEME 01・02にも登場した『リア王』。老王リアは「愛の言葉」を競わせて国を上の二人の娘に与え、率直な末娘コーディリアを勘当した。道化はその直後から登場し、すべてを失っていく王のそばに付き従う。

シェイクスピアの道化の最高峰は、文句なしに『リア王』の道化だと思う。名前すら与えられていない、ただ「道化」とだけ呼ばれるこの人物は、登場した瞬間から一貫してひとつのことしかしない。王が犯した過ちを、王に思い出させ続けるのだ。

国を娘に譲った王を、道化は歌でからかう。卵を二つに割って両方娘にやり、殻だけ残った、と。金の冠を手放したとき、あんたの禿げ頭には知恵が入っていなかった、と。そして極めつけは、こんな理屈だ。

I am better than thou art now; I am a fool, thou art nothing.

今じゃ俺のほうがあんたより上等だ。俺は阿呆だが、あんたは無だ。(拙訳)

『リア王』第1幕第4場

王よ、あなたは今や道化以下である——免許があるとはいえ、よくここまで言えるものだ、という辛辣さだ。しかし読み進めるとわかるのは、この毒舌が意地悪ではなく、ほとんど愛情の形をしていることだ。皆がリアを見捨てても、道化は嵐の荒野までついていく。追従を言う家来たちが去り、真実を言う道化だけが残る。彼の冗談は、王に現実を直視させようとする、遅すぎた治療なのだ。

Thou shouldst not have been old till thou hadst been wise.

賢くなる前に、年をとるべきじゃなかったんだ。(拙訳)

『リア王』第1幕第5場

そしてこの道化には、シェイクスピア劇でも有数の謎がある。第3幕を最後に、何の説明もなく劇から消えるのだ。最後の台詞は「俺は昼に寝るとするよ」。以後、二度と登場しない。なぜ消えたのか。劇作上の都合という説もあるが、僕は物語の必然として読みたい。THEME 01で見たとおり、狂ったリアは自分で「狂気の中の理性」を語り始める。王が自分の阿呆さを知ったとき、それを教える係はもう要らない。道化は、主人が本物の阿呆——つまり賢者——になった瞬間に、役目を終えて消えるのだ。

フェステ——「阿呆であること」を証明してみせる論理屋

十二夜

作品メモ THEME 03の舞台『十二夜』。伯爵令嬢オリヴィアは亡き兄の喪に服し、七年間顔を隠して暮らすと宣言している。フェステはオリヴィア家お抱えの道化だが、近ごろ無断で屋敷を空けてばかりで、女主人の機嫌を損ねている。

『十二夜』のフェステは、リアの道化より一段と職業人らしい道化だ。彼の芸の見本として名高いのが、機嫌の悪い女主人オリヴィアを相手にした場面。「この阿呆を下がらせなさい」と命じるオリヴィアに、フェステは「では奥様を下がらせろ」と返し、問答を仕掛ける。兄上の魂はどこにありますか——天国です——兄上が天国にいるのを悲しむとは、それこそ阿呆のすること。よって、と彼は締めくくる。

Take away the fool, gentlemen.

諸君、この阿呆な方を、お下がらせしろ。(拙訳)

『十二夜』第1幕第5場

喪に服す女主人を「論理的に阿呆と証明する」という、一歩間違えば首が飛ぶ芸当だ。しかもオリヴィアは怒らない。笑って彼を許す。悲しみに閉じこもった人を、正面から慰めるのではなく、屁理屈で笑わせて風を通す——道化の仕事のいちばん上等な形が、ここにあると思う。

このフェステの芸を横で見ていた男装のヴァイオラが、あとで独り言のように、道化という職業の本質を言い当てる。

This fellow is wise enough to play the fool; / And to do that well craves a kind of wit.

あの男は、阿呆を演じられるだけの知恵者だ。あれを上手くやるには、相当の頭が要る。(拙訳)

『十二夜』第3幕第1場

阿呆を演じるには知恵が要る——ここでもまた、THEME 01から続いてきた「演じる」の問題が顔を出す。フェステは阿呆という役を演じるプロであって、阿呆ではない。むしろ相手の身分や気分を瞬時に読み、どこまで踏み込めるかを計算し続ける、劇中で最も醒めた観察者だ。その醒めた目は劇の最後、恋人たちが皆結ばれて退場したあと、たった一人舞台に残って歌う幕切れの歌に滲む。雨は毎日降る、と繰り返すあの歌は、祝祭の劇の最後に置かれた、妙に寂しい現実の音だ。喜劇の登場人物全員が幸福の内側に入っても、道化だけは外側に立っている。

タッチストーンとジェイクイズ——免許の使い道を間違えた男たち

お気に召すまま

作品メモ THEME 02・03の舞台『お気に召すまま』。アーデンの森には、ロザリンドたちと一緒に逃げてきた職業道化タッチストーンと、森の公爵に付き従う陰気な皮肉屋の貴族ジェイクイズがいる。ジェイクイズは道化に憧れる「道化志願者」だ。

『お気に召すまま』が面白いのは、道化そのもの(タッチストーン)と、道化に憧れる素人(ジェイクイズ)を並べて見せることだ。冒頭に引いたとおり、ジェイクイズは「道化の衣装をくれ、世界を洗い清めてやる」と息巻く。だが彼の批判は、聞いていてどこか空回りしている。世界のすべてを憂鬱に斬ってみせる有名な「この世はすべて舞台」の演説も、人生の七つの段階を経て人はよぼよぼの無に還る、という虚無で終わる。切れ味はあるのに、誰も救わない。

一方のタッチストーンは、大上段の世界批判はしない。恋人たちの熱に浮かされた誓いを茶化し、宮廷の礼儀作法のばかばかしさを実演し、目の前の相手の足元だけを、ちくちくと突く。ロザリンドたちは彼の毒を浴びながら、しかしその毒のおかげで、自分たちの恋を少し笑えるようになる。

この対比は、「免許」の本質を教えてくれる気がする。ジェイクイズの批判が刺さらないのは、彼が安全な場所から世界を裁いているからだ。彼は貴族で、失うものがなく、批判の対象と運命を共にしない。対してリアの道化は嵐の中まで主人と行き、フェステは生活のかかった芸として毒を吐き、タッチストーンは口説いた村娘と結婚して森の生活に巻き込まれていく。道化の免許は、対象と同じ船に乗っている者にだけ効く。外野からの正論が人を動かさないのは、400年前から変わらないらしい。

並べてみて見えること——真実は、阿呆の衣装を着ないと届かない

並べ直してみる。リアの道化は、主人と沈みかけの船に乗り続けることで、毒舌を愛情として届けた。フェステは、阿呆を演じる知恵で、悲しむ人に風を通した。ジェイクイズは、免許だけ欲しがって船に乗らなかったので、正論が誰にも届かなかった。

ここで、このサイトで追いかけてきた軸がまた顔を出す。狂人だけが真実を言えた(THEME 01)。男装のときだけ本音が言えた(THEME 03)。そして道化だけが、王に本当のことを言えた。並べると、シェイクスピアが繰り返し描いた法則がはっきり見えてくる。この世界では、真実はそのままの姿では流通しない。狂気や、変装や、冗談という包み紙が要る。裸の真実を語ったコーディリアとケントは追放され、冗談に包んだ道化は王のそばに残った——『リア王』の開幕は、ほとんどこの法則の実験のようだ。

だとすると、道化とは何者か。僕の読み方はこうだ。道化は、劇作家がこっそり舞台に置いた、自分の分身である。権力者を笑い、世間の建前を茶化し、それでいて「ただの戯言です」と首をすくめてみせる——これは、検閲のある時代に芝居を書いて生きた劇作家その人の姿勢と、そっくり重なる。シェイクスピア自身、王の一座の座付き作家として、宮廷の目の前で王や権力を描き続けた人だ。道化の免許とは、つまり演劇の免許のことなのだと思う。舞台の上の戯言としてなら、言ってはいけない真実を言える。その免許を最大限に使った男の書いた道化たちが、いちばん生き生きしているのは、当然なのかもしれない。

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