LENS 10

権限を持つと人が変わるのはなぜか
——『尺には尺を』のアンジェロ

尺には尺を

昇進した途端に別人になった人を、見たことはないだろうか。前は普通に話が通じたのに、役職がついたら急に細かくなった。融通が利かなくなった。あるいは、自分より下の立場の相手にだけ強く出るようになった。

そういうとき僕たちは「あの人は変わってしまった」と言う。けれど本当に変わったのだろうか。それとも、元からそこにあったものに、出口ができただけなのだろうか。人格が権力に作り替えられたのか、権力が人格を露出させただけなのか——この二つは、外から見ているかぎり見分けがつかない。

この問いのために、シェイクスピアは一本まるごと劇を書いている。しかも、劇中の人物自身が「これは実験だ」と口に出してから始めるという、ずいぶん露骨な作りで。

実験として始まる劇

作品メモ 『尺には尺を』——ウィーンの公爵は、街の風紀の乱れを正すため、自分は表向き身を引いて、代理人アンジェロに全権を委ねる。アンジェロは清廉潔白で知られた男。彼は長らく死文化していた法を復活させ、婚姻の手続きを終える前に恋人ジュリエットを身ごもらせた若者クローディオに死刑を宣告する。喜劇に分類されているが笑えない、いわゆる「問題劇」の代表格。

公爵は街を離れたと見せかけて、実際には修道士に変装してウィーンに残る。第1幕第3場、修道士トマスに計画を打ち明ける場面で、彼は本音を漏らす。

Lord Angelo is precise; / Stands at a guard with envy; scarce confesses / That his blood flows, or that his appetite / Is more to bread than stone: hence shall we see, / If power change purpose, what our seemers be.

アンジェロ卿はきちょうめんな男だ。妬みに対して身構えていて、自分の血が流れていることも、石よりはパンを食べたいと思うことも、めったに認めようとしない。だから見てみようではないか——もし権力が目的を変えるものなら、我々のあいだの「そう見えている人たち」が、何者なのかを。(拙訳)

『尺には尺を』第1幕第3場

「もし権力が目的を変えるものなら」。この一行が、劇全体の設問だと思う。公爵は風紀を正したいだけではない。アンジェロを試したいのだ。清廉に「見えている」人間に権限を渡したら何が起きるか、を見たがっている。

この設定のいやらしさは、実験のために一人の若者の首がかかっていることだ。公爵は自分の手を汚さずに厳罰を導入し、結果だけを離れて眺める。この人物の善良さは、僕の読み方では最後まで疑わしいままだ。

権限を持った途端に見えること

アンジェロは着任するなり、法を機械のように適用しはじめる。副官のエスカラスは第2幕第1場で、遠慮がちに反対する。あなたご自身、生涯のどこかで、いま人を裁いているその同じ点でつまずいたことはなかったのですか、という趣旨のことを尋ねるのだ。アンジェロの返事は、後から読み返すと震えるほど皮肉に響く。誘惑されることと、堕ちることは別だ、と彼は言う。

その「堕ちる」相手が、すぐにやってくる。死刑を宣告されたクローディオの妹、修道院に入ろうとしている見習いのイザベラだ。彼女は兄の助命を嘆願しに来る。この嘆願の場面(第2幕第2場)で彼女が語る権力論が、この劇でいちばん有名な一節だと思う。

O, it is excellent / To have a giant's strength, but it is tyrannous / To use it like a giant. ... but man, proud man, / Drest in a little brief authority, / Most ignorant of what he's most assured, / His glassy essence, like an angry ape, / Plays such fantastic tricks before high heaven / As make the angels weep.

ああ、巨人の力を持つのは結構なことです。けれどそれを巨人のように振るうのは、暴虐というものです。……ですが人間は、思い上がった人間は、ほんのわずかな、束の間の権威を着せられただけで、いちばん確かなはずの自分の本性をいちばん知らないまま、怒った猿のように、天の前で突拍子もない芸をしてみせる——天使たちが泣くほどの芸を。(拙訳)

『尺には尺を』第2幕第2場

「ほんのわずかな、束の間の権威を着せられただけで」。権威は着せられるものであって、身についているものではない——彼女はそう言っている。しかもこの台詞を、よりによって、いま権威を着せられたばかりの本人に向かって言っている。

そして、この嘆願がアンジェロを壊す。場の終わりに一人残された彼は、自分の中でいま何が起きたのかを、その場で実況しはじめる。

What's this, what's this? Is this her fault or mine? / The tempter or the tempted, who sins most? / Ha! / Not she: nor doth she tempt: but it is I / That, lying by the violet in the sun, / Do as the carrion does, not as the flower, / Corrupt with virtuous season.

これは何だ、これは何なのだ。彼女の落ち度なのか、それとも私のか。誘惑する側と誘惑される側と、どちらの罪が重い。……いや、彼女ではない。彼女は誘惑などしていない。私のほうだ。日なたで菫のかたわらに横たわりながら、花のようにではなく腐肉のように振る舞って、うららかな季節に腐っていくのは。(拙訳)

『尺には尺を』第2幕第2場

ここが恐ろしいところだと思う。彼は自分を正当化しない。「彼女が誘ったのだ」と言いかけて、自分でそれを打ち消し、腐っているのは自分のほうだと結論を出す。日なたに置かれれば、花はいい香りを放ち、肉は腐る。同じ日光を浴びて、中身の違いだけが出る——権力とはこの日光のようなものだ、という比喩として、僕はここを読んでいる。

「天が受け取るのは、私の空っぽな言葉だけだ」

第2幕第4場の冒頭、彼はもう一段深いところまで自分を覗き込む。

When I would pray and think, I think and pray / To several subjects. Heaven hath my empty words; / Whilst my invention, hearing not my tongue, / Anchors on Isabel: Heaven in my mouth, / As if I did but only chew his name; / And in my heart the strong and swelling evil / Of my conception. ... Blood, thou art blood: / Let's write good angel on the devil's horn: / 'Tis not the devil's crest.

祈ろう、考えようとすると、私の思考と祈りは別々のものへ向かってしまう。天が受け取るのは、私の空っぽな言葉だけだ。そのあいだ私の心は、自分の舌の言うことも聞かずに、イザベラのところに錨を下ろしている。口の中には天があるのに、その名をただ噛んでいるだけのようで、胸の中にあるのは、私が思い描いてしまった、強く膨らんでいく悪だ。……血よ、お前はやはり血だ。悪魔の角に「善き天使」と書いてみたところで、それが悪魔の紋章でなくなるわけではない。(拙訳)

『尺には尺を』第2幕第4場

この構図には見覚えがある。LENS 02で読んだ『ハムレット』のクローディアスが、ほとんど同じことを言っていた。「私の言葉は上へ飛んでいく。私の思いは下に残ったままだ」。二人とも、自分の言葉が空洞であることを、誰にも見られていない場所で正確に把握している。違うのは向きだ。クローディアスは済んだ罪の後始末をしているが、アンジェロはこれからやることの前で立っている。

そして彼は、イザベラに要求を突きつける。兄の命が惜しければ、身を自分の意のままに差し出せ、と(第2幕第4場)。法によって人を裁いていた男が、その法が禁じていることを、法の権限を使って強要する。公爵の実験は、ここで結論を出したように見える。

変わったのか、外れただけなのか

では、権力がアンジェロを変えたのだろうか。僕の読み方では、この劇は「変えた」よりも「外した」のほうに寄っている。

根拠は劇の中にある。アンジェロには過去があるのだ。彼はかつて、婚約者マリアナの持参金が海難で失われたことを理由に、彼女との縁組を破棄している。しかもそのとき、彼女の評判を傷つけるようなことまで言った——と、変装した公爵がイザベラに語って聞かせる。舞台の上で演じられる過去ではなく、あくまで人づての説明だが、終幕でマリアナ本人がそれを裏づけ、アンジェロも争わない。着任するずっと前から、彼は自分の損得のために人を切れる人だった。清廉だったのではなく、清廉に見える場所に立っていただけだ。

公爵の台詞に戻ると、この読み方は最初から示されている。彼が試そうとしたのは「そう見えている人たち」の正体だった。「権力が人を変えるか」ではなく「権力が何を見せるか」を、この劇は問うている。

権力は人格を作り替える装置ではなく、抑えの側を消す装置なのだと思う。世間の目、失うものの計算、周囲との力の釣り合い。人が何かをしないでいるとき、その理由の大部分はたぶんそこにある。権限は、そちらのほうを先に溶かしてしまう。抑える理由が消えたときに残るものは、その人が元から持っていたものだ。

これはLENS 03で見た「評判という検問所」の裏返しでもある。あちらでは、良い評判が疑いを素通りさせる通行証として働いていた。こちらでは、良い評判が本人にとっての足枷であり、権力がその枷を外す。同じ評判というものが、外から見れば通行証で、内から見れば枷なのだ。

告発しようとした側に起きること

この劇のもう一つの正確さは、要求された側についてもきちんと書いていることだと思う。イザベラは屈しない。世間に触れ回してやる、と告発を宣言する。アンジェロの返事はこうだ。

Who will believe thee, Isabel? / My unsoil'd name, the austereness of my life, / My vouch against you, and my place i' the state, / Will so your accusation overweigh, / That you shall stifle in your own report / And smell of calumny.

誰がお前の言うことを信じる、イザベラ。汚れのない私の名、禁欲的だと知られた私の暮らしぶり、お前に対する私の証言、そして国家における私の地位——それらがお前の告発を丸ごと押し潰す。お前は自分の訴えの中で息が詰まり、中傷の悪臭を漂わせることになるのだ。(拙訳)

『尺には尺を』第2幕第4場

彼はこのあと、お前が何を言おうと私の偽りのほうがお前の真実より重い、という趣旨のことを言い切って退場する。言い分の中身を争ってはいない。名前、暮らしぶり、証言、地位——この四つを並べて重さを量り、地位そのものが証拠として働くのだから勝負にならない、と宣告しているだけだ。その冷静さが、この場面をいちばん嫌な場面にしていると思う。

権力を持つ側の言葉のほうが信じられる、という構造を、400年前にこれだけ乾いた書き方で書いてあることに、僕は読むたびに少し驚く。

なお、この劇の結末——アンジェロがマリアナとの結婚を命じられ、イザベラは公爵の求婚に一言も返事をしないまま幕が下りる——については、THEME 02で「罰としての結婚」という角度から書いた。この記事で追いたかったのは、その手前、権限が一人の男に何をしたかのほうだ。

抑えられているだけなのか、本当にそうしないのか

「あの人は変わってしまった」と言うとき、変わったのはたぶんその人ではなく、その人を抑えていたもののほうなのだと思う。もちろん言い切れる話ではない。人は本当に変わることもあるし、権限をきちんと使う人のほうが数としては多いはずだ。ただ、見方としてはこちらのほうが外れが少ない気がしている。

そして、これは他人事として済ませにくい話でもある。自分が何かをしないでいるのは、本当にそうしないと決めているからなのか、それとも単に、できる立場にないからなのか。この二つは外から見て区別がつかないうえに、困ったことに、内側から見ても区別がつかない。

アンジェロは、公爵に委任状を渡されるその日まで、自分は前者だと信じていたはずだ。信じていたからこそ、彼は自分の転落を、あそこまで驚いた顔で実況することになる。僕たちが自分について同じことを確かめられるのは、たぶん、権限を持ったあとでしかない。それまでは、清廉さと、機会がないことは、まったく同じ顔をしている。

だから僕は、この劇を「権力者を叩く話」としては読まないことにしている。誰かが昇進して「変わったな」と思ったとき、その隣に自分を並べてみるくらいが、ちょうどいい距離だと思う。並べてみたところで答えは出ないのだが、答えが出ないという事実のほうを、この劇はきちんと書いている。

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