COLUMN 07

成り上がりのカラス
——田舎の手袋屋の息子が、文豪になるまで

経歴と、悪口と、ビジネスモデルの話

ウィリアム・シェイクスピアは、大学を出ていない。

この一点だけでも、当時の劇壇では相当に異例だった。人気劇作家の多くはオックスフォードかケンブリッジの出身で、ラテン語で古典を読み、古典の型を踏まえて書く教養人だったからだ。一方のシェイクスピアは、ロンドンから150キロほど離れた田舎町ストラトフォード・アポン・エイヴォンの手袋商の息子である。学歴は地元のグラマースクールまでと考えられている——「考えられている」と書いたのは、通ったことを示す出席記録が残っていないからだ。町の有力者の息子なら通えたはずだ、という状況証拠からの推定にすぎない。

今回は肩の力を抜いて、この男がどうやって「文豪」になったのかを、残っている記録の側から追ってみたい。作品論ではなくキャリア論の回だ。

失われた年月——記録が消える七年

わかっていることから並べる。1564年生まれ。父ジョンは手袋や革を扱う商人で、町の役職を務め、いっとき町長格の地位にも就いたが、その後は財政的に傾いたらしい。1582年、18歳で8歳年上のアン・ハサウェイと結婚。翌年に長女、1585年に双子が生まれる。20歳そこそこで、田舎町に三人の子どもがいる状態だ。

そしてここから、記録がほぼ途切れる。1585年ごろから、ロンドンの劇壇に姿を現す1592年まで。研究者が「失われた年月(lost years)」と呼ぶ空白期間である。この七年ほどのあいだに、彼は妻子を故郷に残してロンドンへ出て、劇団に入り、台本を書けるところまで行っている。その過程を示す一次資料が、事実上ない。

空白があると、人は埋めたくなる。実際この期間には逸話が多い。有力者の領地で鹿の密猟をして追われ、ロンドンへ逃げた——という話は昔から語られているが、死後だいぶ経ってから書き留められたもので、裏づける当時の記録はない。田舎で教師をしていたという説も、17世紀の人物の伝聞にすぎない。面白いから残っているだけかもしれない、と思っておくのが健全だと思う。確実なのは、七年後に彼がロンドンにいて、同業者に嫉妬されるくらいには成功していたことだけである。

最初の言及が、悪口だった

ここが個人的にいちばん好きなところだ。演劇人シェイクスピアに触れた現存最古の文章は、賞賛ではない。悪口である。

1592年、ロバート・グリーンという劇作家の名で『三文の知恵』という小冊子が出る。グリーンはケンブリッジ出身、のちに「大学才人」と総称されることになる学歴組の一人で、この冊子は彼の死の直後に出版された。同業の劇作家たちに向けた警告という体裁で、こう書かれている。

there is an upstart Crow, beautified with our feathers, that with his Tygers hart wrapt in a Players hyde, supposes he is as well able to bombast out a blanke verse as the best of you.

成り上がりのカラスが一羽いる。我らの羽根で身を飾り、役者の皮に虎の心を包んで、無韻詩をぶち上げることにかけては貴公らの誰にも劣らぬつもりでいる男だ。(拙訳)

ロバート・グリーンに帰される『三文の知恵』1592年

役者ふぜいが作家を気取るな、という趣旨である。「我らの羽根」——つまり大学出の作家たちが書いた台詞で飾り立てているくせに、という言い分だ。ずいぶん露骨な学歴マウントだが、これがシェイクスピアを指していると考えられている根拠は、悪口の作り込みのほうにある。「役者の皮に虎の心を包んで」は、シェイクスピアの『ヘンリー六世・第三部』にある台詞をひねったものなのだ。

O tiger's heart wrapt in a woman's hide!

おお、女の皮に包まれた虎の心よ。(拙訳)

『ヘンリー六世・第三部』第1幕第4場

相手の書いた台詞をもじって相手を刺す。手の込んだ悪口だ。おまけに文中では、この男は自分こそ国じゅう唯一の「シェイク・シーン」(舞台を揺るがす男)だと思い込んでいる、という言い方まで出てくる。名前まで刺しているわけだ。COLUMN 04で見たとおり、この時代の悪口は工芸品めいた凝り方をするのだが、それを浴びせられる側にシェイクスピアがいたというのが、なんとも味わい深い。

なお、この冊子を本当にグリーンが書いたのか、出版に関わった別人の筆が入っているのかは、昔から議論がある。その別人が後に、問題の記述を詫びるような文章を出したとも語られている。断定はできない。ただ、誰が書いたにせよ、史上最大の文豪への最初の言及が、学歴のある同業者の嫉妬まじりの悪口だったという事実は動かない。しかも指摘の中身は正確だ。この1592年ごろ、彼は『ヘンリー六世』三部作や『タイタス・アンドロニカス』といった血なまぐさい初期作を量産している(この時期の作風はCOLUMN 05で数えてみた)。大学を出ていない役者が、流行のジャンルに全力で乗って、目立ちはじめていたのである。

ビジネスモデル——書き手ではなく、オーナーになった

では、彼はどうやって成功したのか。ここから先の記録は、意外なほどはっきりしている。不動産の権利書、訴訟記録、納税記録。要するにお金の記録だ。

決定的だったのは、1594年に結成された宮内大臣一座に、雇われ台本書きとしてではなく持ち分(share)を持つ一員として参加したことだと思う。翌年には、宮廷での上演の報酬を受け取った三人のうちの一人として名前が記録されている。当時の一般的な劇作家は台本を劇団に売り切って原稿料をもらう働き方で、ヒット作を書いても追加の分け前はない。大学才人たちが困窮しがちだったのは、腕の問題というより、この契約形態の問題でもある。

シェイクスピアはそこから降りた。劇団の共同経営者になり、興行収入の分け前を受け取る側に回ったのだ。さらに1599年、劇団が自前の劇場グローブ座を建てたとき、彼はその建物の共同所有者の一人にもなっている。座付き作者であり、看板役者たちの同僚であり、劇場のオーナーでもある。自分で書いた台本を、自分たちの劇場で、自分の劇団が上演し、その売上が自分に入る。いま風に言えば垂直統合だ。学歴も宮廷の後ろ盾もない人間が財を築いた仕組みは、天才性の話というより、この構造の話だと思う。

凱旋——家紋を買い、故郷に大邸宅を買う

稼いだ金の使い道が、また分かりやすい。1596年、父ジョンの名義で紋章院への申請が通り、シェイクスピア家は家紋を手にする。家紋を持つとは、ジェントルマンの身分を名乗れるということだ。費用を出したのは息子だろうと考えられている。残っている授与状の草案には「権利なきにあらず(Non sanz droict)」という標語が書き添えられている。ずいぶん強気な文句だが、標語は授与の必須項目ではなく、この家が実際に使った形跡はない。財政的に傾いた父の名前で、家の身分を取り戻したことになる。同じ年に、彼は11歳の一人息子を亡くしてもいる。

翌1597年、彼はストラトフォードでニュープレイスという大邸宅を購入する。町で二番目に大きな家だったと伝えられている物件だ。ロンドンでは借家住まいを続けながら、故郷にこの家を買った。その後も地元の十分の一税の徴収権や土地を買い、ロンドンにも不動産を持つ。貸した金の取り立てで裁判所に名前が出てくる記録もある。夢見がちな詩人像とはだいぶ違う、抜け目のない実務家の顔だ。

そして40代のうちに、彼は第一線から退いていく。晩年の作品には共作とみられるものが増え、やがて故郷での生活が中心になる。手袋屋の息子として生まれた町に、その町でいちばん立派な部類の家を買って帰り、1616年に亡くなる。THEME 11で書いたように、彼は劇の中でも「引き際」を繰り返し書いた人だった。自分の引き際も、ずいぶん計画的である。

カラスは、白鳥になった

整理すると、この人の武器は二つだったと思う。ひとつは書けること。もうひとつは劇場という商売の仕組みを理解していたことだ。前者だけの人はたくさんいた。グリーンもそうだった。書き手のまま経営側に回れた人が、ほとんどいなかったのである。学歴のなさは、結果としてハンデにならなかった。むしろ古典の型を体で覚えていない分だけ、観客が何で沸くかを基準に書けたのかもしれない——これは僕の勝手な読み方だが。

死後7年の1623年、生前の同僚だった二人の役者が、彼の戯曲36本をまとめた大判の作品集を出す。今日『ファースト・フォリオ』と呼ばれる本だ。そこに寄せられた追悼詩で、古典の教養で鳴らした詩人ベン・ジョンソンがこう書いている。

And though thou hadst small Latin, and less Greek, / From thence to honour thee, I would not seek / For names ... He was not of an age, but for all time!

君のラテン語はわずかで、ギリシャ語はさらに乏しかったとはいえ、君を讃えるのに古人の名を借りようとは思わない。(中略)彼は一時代のものではない、あらゆる時代のためのものだ。(拙訳)

ベン・ジョンソン「追悼の詩」『ファースト・フォリオ』1623年

ラテン語もろくにできないくせに、という学歴の話を一度は持ち出しておいて、そのうえで「あらゆる時代のためのもの」と言い切る。同じ詩の中で、ジョンソンは彼を「エイヴォンの優美な白鳥」とも呼んでいる。

1592年、彼は「我らの羽根で身を飾った成り上がりのカラス」と呼ばれた。1623年、白鳥と呼ばれた。31年である。グリーンの悪口は、要するに全部当たっていた。生意気で、身の程を知らず、大学出の作家たちと同じ土俵に立とうとしている——そのとおりだったのだ。ただ一点だけ、書いた本人の予想を外れた。そのカラスは本当に、羽根を借りた相手の頭上を、悠々と飛び越えてしまった。

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