LENS 01

エセ関西弁はなぜ嫌われるのか
——シェイクスピアの「偽の方言」から考える

リア王 / ヘンリー五世

「〜やねん」「知らんけど」。関西出身でない人がそう喋っているのを聞いて、なぜか少しだけイラっとしたことはないだろうか。本人に悪気はまったくない。むしろ場を和ませたい、距離を縮めたいという親しみの表れであることのほうが多い。理屈で考えれば、怒る理由はどこにもないはずだ。それなのに、あのいわゆる「エセ関西弁」には、うまく言葉にしにくいざらつきがある。

このモヤモヤの正体は何なのだろう。方言そのものの問題なのか、それとも喋っている人の態度の問題なのか。意外に思われるかもしれないが、この問いにかなり正確な答えを出している書き手がいる。400年前のロンドンで芝居を書いていた男だ。今回は、その話をしたい。

まず前提——シェイクスピア劇には、ちゃんと方言がある

作品メモ 『ヘンリー五世』——放蕩の王子だったハルが王位を継ぎ、フランスへ遠征する物語。イングランド軍にはウェールズ、スコットランド、アイルランド出身の将校が混じっており、それぞれ癖のある英語を喋る。少数の軍勢でアジンコートの戦いに勝利するまでを描く。

当時のロンドンの劇場で、訛りは笑いの材料であり、同時に差別の材料でもあった。舞台の上で誰かが訛れば客は笑ったし、その笑いには、地方や隣国を格下に見る成分がまちがいなく混ざっていた。シェイクスピアはその両方を承知のうえで、方言を使っている。

いちばんわかりやすいのが『ヘンリー五世』第3幕第2場だ。ここにはウェールズ人のフルーエリン、スコットランド人のジェイミー、アイルランド人のマクモリスという、訛りを持つ三人の大尉が同時に出てきて、それぞれの英語でぶつかり合う(イングランド人の大尉ゴアワーも同席している)。多国籍軍の楽屋話のような場面だが、その中で一か所だけ、空気が変わるところがある。

FLUELLEN: Captain Macmorris, I think, look you, under your correction, there is not many of your nation-- / MACMORRIS: Of my nation! What ish my nation? Ish a villain, and a bastard, and a knave, and a rascal. What ish my nation? Who talks of my nation?

フルーエリン「マクモリス大尉、私が思うにはですな、いいですか、失礼ながら、あなたの国の者にはそう多くは——」/マクモリス「わしの国だと! わしの国とは何だ。悪党だ、できそこないだ、卑劣漢だ、ろくでなしだ。わしの国とは何だ。誰がわしの国の話をしている」(拙訳)

『ヘンリー五世』第3幕第2場

「わしの国とは何だ」。フルーエリンが言いかけたのはおそらく他愛のない一般論だったのに、マクモリスは食ってかかる。この台詞はアイルランド人のアイデンティティをめぐる一節として、今も研究者や演出家のあいだで繰り返し論じられていると聞く。じつは「悪党だ」以下が誰を指しているのか——自分の国を自嘲しているのか、それとも「お前の国」と口にした相手のことなのか——がはっきりせず、解釈が割れる難所でもあるらしい。訛りを喋らされている当人が、「お前の国」というくくり方そのものに噛みつくのだ。

ただ、ここで見落としたくないことがある。三人の中でいちばん台詞が多く、いちばん笑いを取る役どころのフルーエリンが、同時に、軍規に忠実で誠実な人物としても書かれていることだ。彼は軍規にうるさく、へつらわず、王の前でも自分の意見を曲げない。つまりシェイクスピアは、訛りを笑いに使いながら、訛っている人間の中身までは安く書いていない——と、僕には読める。この線引きは、あとの話につながってくる。

本題——エドガーは「偽の方言」を使う

作品メモ 『リア王』の副筋——グロスター伯爵の嫡子エドガーは、弟エドマンドの策略で、父殺しをたくらんだという濡れ衣を着せられ、指名手配される。彼は狂人トムに変装して逃げ、やがて両目をえぐられて追放された父と荒野で再会する。父は目が見えないので、隣にいるのが息子だと気づかない。エドガーは名乗らないまま、案内人として付き添っていく。

その父を、リアの長女の執事オズワルドが手柄目当てに殺しにくる場面がある。第4幕第6場。エドガーは父をかばって前に出るのだが、このとき彼は、それまでの喋り方をやめて、いきなり田舎訛りに切り替える。

Ch'ill not let go, zir, without vurther 'casion. ... Good gentleman, go your gait, and let poor volk pass. An chud ha' bin zwaggered out of my life, 'twould not ha' bin zo long as 'tis by a vortnight. Nay, come not near th' old man; keep out, che vor ye, or ise try whether your costard or my ballow be the harder: ch'ill be plain with you.

離しませんだ、旦那、それ相応のわけがなけりゃあ。(中略)お人よしの旦那、そのまま道を行きなせえ、貧しい者を通しておくんなせえ。おどし文句で命を投げ出すたちなら、こちとら今より二週間は早くくたばっとりますだ。いや、じいさまに近寄るな、下がれ、言っとくがな、あんたの脳天とおれの棒っきれと、どっちが硬いか試すことになりますぞ。はっきり言わせてもらいますだ。(拙訳)

『リア王』第4幕第6場

原文を見ると、綴りがはっきり崩されているのがわかる。「zir」は sir、「volk」は folk、「vurther」は further。頭の s と f が濁る、南西部訛りの舞台上の表現だ。「ch'ill」は「ich will」の縮約で、「私は〜する」を古い方言形で言っている。要するに、ここでのエドガーは、それらしく作り込まれた田舎者の声で喋っている。

重要なのは、これが紛れもない偽物だということだ。エドガーは伯爵家の嫡子で、こんな訛りで育ってはいない。しかも観客はその事実を知っている。目の前で、貴族の青年が田舎者の声色を借りている。構図だけ取り出せば、エセ関西弁とまったく同じである。

では、なぜエドガーの偽方言は不快でないのか

ここがこの記事の核心だと思う。理由は二つに整理できる。目的代償だ。

まず目的。エドガーが訛るのは、正体を隠さなければ殺されるからであり、父を守るためだ。訛りは彼にとって生き延びるための道具であって、「田舎者キャラ」を借りて場を盛り上げるための小道具ではない。彼はその声で笑いを取ろうともしていない。

そして代償。彼は変装と引き換えに、決定的なものを差し出している。「僕はあなたの息子です」と名乗る権利だ。劇の最後、エドガーは自分の身の上を語ってこう言う。

Never,--O fault!--reveal'd myself unto him, / Until some half-hour past, when I was arm'd: / Not sure, though hoping, of this good success, / I ask'd his blessing, and from first to last / Told him my pilgrimage: but his flaw'd heart, / Alack, too weak the conflict to support! / 'Twixt two extremes of passion, joy and grief, / Burst smilingly.

ついに——ああ、私の過ちだ——父に自分の正体を明かさなかった。ほんの半時間前、武具を着けたときまで。この首尾を確信できぬまま、ただ望みだけを抱いて、私は父に祝福を求め、初めから終わりまで、私のたどってきた道のりを語った。だが父の裂けた心は、ああ、その葛藤に耐えるには弱すぎた。喜びと悲しみという二つの極のあいだで、微笑みながら張り裂けたのだ。(拙訳)

『リア王』第5幕第3場

父は、息子の腕に支えられて歩きながら、それが息子だと知らずに死の直前まで来てしまう。エドガーはその選択を「私の過ちだ」と呼んでいる。つまり彼は、借りた声のぶんだけ、きちんと払っているのだ。

エセ関西弁が引っかかるのは、この二つがちょうど裏返しだからではないか、と僕は思う。目的の側にあるのは、たいてい話し手の得だ。面白い人だと思われたい、場を柔らかくしたい、距離を詰めたい。どれも悪意ではないけれど、利益は喋っている側に落ちる。では代償の側はどうかというと、ほぼゼロである。

関西弁が背負ってきたもの——地元で笑いの水準を要求され続けること、上京先で「なんか面白いこと言って」と振られること、かつて訛りを直せと言われた歴史——そういう面倒な部分は引き受けないまま、気安さと、笑ってもいいという許可証だけを持っていく。しかも一枚羽織っただけだから、都合が悪くなればいつでも脱いで標準語に戻れる。エドガーには、戻る先がなかった。

もちろん人によるだろうし、関西の人が全員あれを不快に感じているとも思わない。僕自身、聞いていて普通に楽しい「エセ」もある。ただ、あのざらつきを言葉にするなら、それは方言そのものへの怒りというより、コストを払わずに便益だけ持っていかれたことへの反応なのだろうと思う。

補助線——変装は、このサイトが最初から追ってきた主題だ

シェイクスピアは変装を大量に書いた人だが、うまくいく変装には必ず代償がついている。THEME 03で見た男装のヒロインたちがそうだ。ヴァイオラは男の姿を手に入れる代わりに、愛する相手に自分の気持ちを打ち明ける道を失う。自由と引き換えに、彼女たちは「本当のことを言えない」という重りを引き受けている。

THEME 01の「狂気は演技か、本物か」も骨格は同じで、そこでも主役の一人はエドガーだった。彼は劇のあいだじゅう、狂人トムのふりをし、田舎者のふりをし、最後は名も名乗らない騎士として弟の前に現れる。ふりをし続けることそのものが、この人物の人生になっている。借り物のペルソナが許されるかどうかは、それが何のためで、その人が何を差し出しているかで決まる——シェイクスピアは、それを人物の設計で示していると思う。

ついでに言えば、この線引きは日常の言葉にも及んでいる。COLUMN 03で書いたとおり、僕たちが何気なく使う英語表現のかなりの部分は彼の劇に由来している。言葉を借りること自体は、悪でも何でもないのだ。

訛りを笑われる側の人が、書いている

最後に、この記事を書きながらいちばん効いた事実を置いておきたい。シェイクスピアはロンドンの人ではない。ストラトフォードという、当時のロンドンから見れば田舎の町の生まれで(COLUMN 07参照)、地方の訛りを持っていた可能性が高いと考えられている。もちろん録音が残っているわけではないので、断定はできない。

けれど、もしそうだとすれば、彼は訛りを笑われる側にいた人ということになる。そう考えると、フルーエリンの書き方にも説明がつく気がしてくる。『ヘンリー五世』の終盤、ウェールズの象徴である葱の話題から、王とフルーエリンが言葉を交わす場面がある。

KING HENRY V: I wear it for a memorable honour; / For I am Welsh, you know, good countryman. / FLUELLEN: All the water in Wye cannot wash your majesty's Welsh plood out of your pody, I can tell you that...

ヘンリー五世「これは忘れがたい名誉として身に着けているのだ。私はウェールズ人だからな、同郷のお方」/フルーエリン「ワイ川の水を全部使ったところで、陛下のウェールズの血をお体から洗い流すことはできませんぞ、これだけは申し上げておきますが」(拙訳)

『ヘンリー五世』第4幕第7場

訛りを笑われ続けた大尉に対して、王のほうから「同郷だ」と名乗り出る。笑いの材料だったものが、名誉のしるしに変わる瞬間だ。訛りを一段低いものとして扱っておきながら、最後にはそれを王の血として書く。この人はやはり、笑う側と笑われる側の両方に足を置いていたのだと思う。

エセ関西弁がイラっとさせるのは、たぶん、方言が着脱できる「キャラ」として扱われるからだ。シェイクスピアは訛りをさんざん笑いの道具に使いながら、それでも、借りていい訛りと借りてはいけない訛りをちゃんと分けて書いていた。400年前にである。というわけで、次に誰かの「知らんけど」を聞いたら、僕はたぶん心の中でエドガーの顔を思い出すことになる。それでイラっとしなくなるかどうかは、まあ、その日の機嫌次第だと思う。

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