THEME 16

結局、シェイクスピアはなぜ評価されているのか
——「言葉が美しいから」では答えになっていない

ハムレット / マクベス / リチャード三世 / ヴェニスの商人 ほか

シェイクスピア。名前だけなら、聞いたことがないという人は少ないと思う。「生きるべきか、死ぬべきか」も「ロミオ、あなたはどうしてロミオなの」も、読んだことがない人でも口にできる。ところが「で、結局その人はなぜそんなに偉いことになっているの」と聞かれると、案外すぐには答えが出てこない。

しかも、ちゃんと読もうとした人ほど静かに困っていたりする。台詞は長いし、比喩は回りくどいし、筋そのものは「だまされて、誤解して、死ぬ」という話も多い。正直ピンとこなかった——そう思っても、口に出すのははばかられる。わからないほうが悪いのだろう、という空気があるからだ。

この記事では、その少し聞きにくい疑問に、できるだけ正直に答えてみたい。このサイトで書き継いできたテーマ別の記事を、証拠として使いながら進める。先に結論を言っておくと、最大の理由は「うまいから」でも「美しいから」でもないと思っている。答えを書かなかったからだ。

まず、いちばんよく言われる答えを疑う

「言葉が美しいから」。おそらくこれが最も流通している説明だ。実際、原文には音の設計がある。弱強のリズムで刻まれる詩行、行末の押韻、語呂合わせ、ひとつの単語に二つの意味を持たせる掛詞。英語で声に出して読むと、意味より先に音が入ってくる瞬間がある。

ただ、この答えは日本語で読む僕たちにはほとんど届かない。翻訳を通した時点で、韻律も押韻も駄洒落も大半は落ちる。落ちないように訳せば意味が歪み、意味を通せばリズムが消える。訳者がどれだけ腕を尽くしても、この交換レートからは逃げられない。

だからこの理由を受け取ると、話は妙なところに着地してしまう。では日本語で読む価値はないのか、という結論だ。それは違うと思う。以下は、翻訳を通しても残るものは何か、という基準で選んだ三つの答えである。

答え①——人間の内側を、舞台の上で見えるようにした

装置の名前は独白という。舞台でひとりになった人物が、心の中をそのまま声に出す、あの形式だ。演出によっては、それが客席に向かって直接語りかける形になる。これが劇の中心に据えられたことの意味は大きいと思う。

先に断っておくと、彼が独白を発明したわけではない。中世の道徳劇には、善天使と悪天使のあいだで揺れる主人公がいたし、客席に直接語りかけて悪事を打ち明ける「ヴァイス(悪徳)」という定番の役どころもあった。同時代のマーロウは『フォースタス博士』で、迷い続ける男の独白を舞台の中心に置いている。シェイクスピアがやったのは、その形式を主人公に、しかも劇の骨格そのものに使ったことだと思う。「何をしたか」ではなく「何を考えているか」のほうを、劇の主戦場にしたのだ。

『リチャード三世』は、その極端な例から始まる。主人公は開幕早々ひとりで舞台に出てきて、これから悪党になると宣言する。

And therefore, since I cannot prove a lover / To entertain these fair well-spoken days, / I am determined to prove a villain / And hate the idle pleasures of these days.

というわけで、この口当たりのいい太平の世を楽しむ恋人役は、私には務まらない。ならば悪党を務めると腹を決めた。この時代のなまぬるい娯楽など、憎んでやる。(拙訳)

『リチャード三世』第1幕第1場

犯行予告である。しかも観客にだけ打ち明けられる。THEME 04で書いたとおり、シェイクスピアの悪役はこうして客席を共犯者にする。悪事の中身より、悪事を決めていく頭の中が見せ場になっている。ちなみにリチャード自身、第3幕で「昔ながらのヴァイス、『不義』のように」と自分の芸の出所を言ってのける。借り物だと本人が明かしているわけだ。新しいのは形式そのものではなく、その借り物を主人公の位置に据えたことだと思う。

もっと繊細な例もある。CHARACTER 02のマクベス夫人は、夫を殺人に押し出す前に、自分を女でなくしてくれ、と祈る。祈りとは、いま自分に無いものを求める形式だ。つまりあの台詞は決意表明であると同時に、足りていないという自己申告でもある。だから後半で彼女が壊れるのは、最初の台詞に書き込まれていた予定通りということになる。人物の未来が、行動ではなく心の言葉づかいに埋め込まれている。

そして、この装置がいちばん有名な形で使われたのが『ハムレット』だ。

To be, or not to be, that is the question: / Whether 'tis nobler in the mind to suffer / The slings and arrows of outrageous fortune, / Or to take arms against a sea of troubles, / And by opposing end them.

在るか、在らぬか、それが問いだ。理不尽な運命の投げつける石や矢を、心のうちで耐え忍ぶほうが立派なのか。それとも、押し寄せる苦難に武器を取って立ち向かい、戦って終わらせるほうがいいのか。(拙訳)

『ハムレット』第3幕第1場

注目したいのは、この台詞が結論に達しないことだ。彼は問いを立て、両方を秤にかけ、そのまま話をやめる。答えの出ない思考が、答えの出ないまま舞台に置かれている。筋の効率だけで言えば無駄な台詞である。にもかかわらず、この無駄がいちばん記憶される。

いま僕たちが小説やドラマで当たり前に受け取っているもの——迷う主人公、決めきれない独白、視聴者にだけ見える本音——の原型がここにあると思う。人の外側ではなく内側を主戦場にする書き方が、まだ演劇の主流ではなかった時代の話だ。そしてこれは、翻訳を通しても消えない。構造だからだ。

答え②——ジャンルを混ぜた

二つめは、もっと乱暴な話だ。彼は悲劇と喜劇を平気で混ぜた。いちばんわかりやすいのが『マクベス』第2幕第3場である。前の場面で、マクベスは客として迎えた王ダンカンを刺し殺したばかり。手は血まみれで、夫婦は錯乱寸前だ。その直後に出てくるのが、二日酔いの門番である。

Here's a knocking indeed! If a man were porter of hell-gate, he should have old turning the key. Knock, knock, knock! Who's there, i' th' name of Beelzebub?

やれやれ、ひどい叩きようだ。地獄の門番でもやっていたら、鍵を回すのに忙しくてかなわんだろうよ。ドンドンドン。誰だ、ベルゼブブの名にかけて、そこにいるのは。(拙訳)

『マクベス』第2幕第3場

王殺しの直後に、下ネタまじりの一人漫才が入る。しかもそこそこ長い。当時の演劇論の規範からすれば相当に乱暴だったはずで、後の時代にはこの場面を品位に欠けるとして削って上演することもあったと語られている(どこまで削られたのかは確かめていないので、そういう扱いを受けた時期があるらしい、という程度に)。

逆向きの混ぜ方もある。THEME 02で見たように、シェイクスピアの喜劇は結婚で終わるのに、その結婚がどうも素直に喜べない。求婚に一言も返事をしない花嫁がいる。罰として結婚させられる人物がいる。祝祭の音楽が鳴っているのに、舞台の隅に沈黙が残る。

これを規範破りと呼ぶこともできるが、僕は人生の手触りに寄せた結果だと思っている。いちばん悲しい日にも腹は減るし、めでたい日にも嫌なことは起きる。純度の高い悲しみも喜びも、生活の中にはほとんど存在しない。ジャンルを守るとは、その不純物を捨てることだ。彼は捨てなかった。

答え③——答えを書かなかった

ここがこの記事の核心だと思っている。シェイクスピアは、結論を書かない作家だ。

ハムレットが本当に狂っていたのか、ふりをしていただけなのか。台本は決めていない。THEME 01で追いかけたとおり、狂気を宣言してから始めたはずの彼は、途中から演技と本物の境目が読者にも本人にも見えなくなる。どちらとも読めるように書いてある。

亡霊が実在したのかも決まらない。THEME 06で見たように、『ハムレット』の亡霊は序盤では複数人に見えるのに、後半では息子ひとりにしか見えなくなる。実在の証拠と幻覚の証拠が、同じ劇に両方置かれている。

そして『ヴェニスの商人』のシャイロックだ。台本の役割としては喜劇の敵役なのに、その彼にこの台詞が与えられている。

Hath not a Jew eyes? Hath not a Jew hands, organs, dimensions, senses, affections, passions? ... If you prick us, do we not bleed? If you tickle us, do we not laugh? If you poison us, do we not die? And if you wrong us, shall we not revenge?

ユダヤ人には目がないのか。ユダヤ人には手が、内臓が、体の寸法が、感覚が、情愛が、激情がないというのか。(中略)刺されれば血が出ないのか。くすぐられれば笑わないのか。毒を盛られれば死なないのか。そして不当な扱いを受けたら、仕返しをしないとでも。(拙訳)

『ヴェニスの商人』第3幕第1場

この台詞があるせいで、彼を単なる悪役として処理できなくなる。かといって、彼が最後にすることは同情一色では受け取れない。CHARACTER 03で書いたとおり、悪役なのか犠牲者なのかを、台本は最後まで決めていない。決めていないから、上演のたびに決め直されてきた。

僕の読み方では、この「決めなさ」こそが、彼を四百年生き延びさせた仕掛けだ。答えが書かれていない台本には、各時代が自分の問いを投げ込める。精神分析が流行れば無意識の劇として読まれ、植民地支配を問い直す時代には支配と被支配の劇として読まれた。同じ台詞が、時代ごとに別の意味で発音され続けてきた。

逆から言えば、答えを出す作家は、その答えが古びると一緒に古びる。当時の常識どおりに明快な結論を書いた同時代の劇は、結論が賞味期限を迎えたときに劇ごと棚から下ろされた。決めなかったことは、結果としていちばん強い保存方法になった。

補足——生き残ったこと自体も、評価の一部である

ここは正直に書いておきたいのだが、評価には雪だるま的な部分もあると思う。まず、台本が物理的に残った。COLUMN 08で触れたように、彼の死後、劇団の同僚たちが全集を編んで出版した。この本がなければ、いくつもの作品は散逸していただろうと言われている。次に、言葉が日常語に沈殿した。COLUMN 03で並べたように、英語圏の人が今日も使っている表現のかなりの数が、彼の劇に出典を持つとされている。

そして、引用が引用を呼んだ。有名だから上演され、研究され、教科書に載り、また有名になる。この循環は作品の中身と半分くらい無関係に回る。その全集の冒頭には、同時代の劇作家ベン・ジョンソンの讃辞が載っている。

He was not of an age, but for all time!

この人はひとつの時代のものではない、あらゆる時代のためのものだ。(拙訳)

『ファースト・フォリオ』所収 ベン・ジョンソンの讃辞(1623年)

四百年後を言い当てた予言のように引かれる一行だが、そもそもこれは全集の巻頭に置かれた讃辞である。売るための言葉という側面も当然あっただろう。それでも結果的に本当になってしまったわけで、雪だるまはこのあたりから転がり始めたことになる。

ただし、雪だるまも芯がなければ転がらない。同じように出版され、讃辞を添えられた同時代の劇作家は他にもいて、その多くは専門家の書棚に収まっている。雪だるまの話は、評価の説明の半分にはなるが、全部にはならないと思う。

では、どこから読み始めればいいか

最後に実用的な話をしたい。「名作だから読め」は、たぶん最悪の入り方だと思う。名作だからという理由で開いた本は、読み進める理由をどこにも持っていない。四百年前の王位継承争いに、今日の自分が興味を持てる保証はないのだ。

僕のおすすめは、自分がいま気にしていることを入口にすることだ。職場の人間関係が気になるなら、生き残る友情と清算される友情の話がある(THEME 14)。お金なら借金と担保の話(THEME 15)、引き際や親の老いなら手放す順番の話(THEME 11)。入口さえ自分の関心に合っていれば、四百年前の台詞は驚くほど素直に入ってくる。このサイトが作品別ではなくテーマ別に書かれているのは、半分はそのためだ。

そして、そういう読み方が成立してしまうこと自体が、この記事の答えでもある。彼が結論を書かなかったおかげで、僕たちは自分の問いを持ち込める。持ち込んだぶんだけ、台本は答えを返してくる。偉いから読むのではなく、こちらの用事に付き合ってくれるから読む。それがこの人の、いちばん実用的なところだと思う。

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